2020-01-25

●風邪の症状がかなり酷いが、出かけられる日が他にないので、いくつかの展覧会を観るために出かける。しかし、最初に東京ステーションギャラリーで坂田一男展を観ただけで、ああ、今日はこれ以上はちょっと無理だと思って、帰ることにした。

●坂田一男展は、かなり重たい展覧会だった。一枚一枚の絵の凝縮度が高く、これだけ濃厚な絵を、これだけの点数、一気に観るのはかなり「しんどい」ことだった(風邪のせいもあるだろうが)。

一枚の絵に、何枚もの絵が畳み込まれている感じ。それも、複数の異なる空間(時間)が、横に並列されているというという以上に、層として重ねられて内側に畳み込まれている感じ。タブローだけではなく、エスキースや素描も同様(消しては描き、消しては描きを繰り返している痕跡としての層)。

これは、たんに絵の具の厚さや制作時間の長さの問題ではないだろう。同じ事をだらだらやっているだけでは、どんなに時間をかけても、単調なまま絵の具が重たくなるだけだ(ましてや、物理的にほとんど層をつくらないエスキースではなおさら)。そうではなく、一つのキャンバスのなかで、次々と、その都度異なることを試みて、それを上から重ねていると思われる。

さらに、ただ「異なる空間性」が重ねられているというだけでなく、それが自ら内側へと畳み込まれていくような凝集性をもって重ねられているように感じられる。拡散的であるよりは凝集的---求心的ではない---であるような多層性。それは、自らを内側へと隠し去るような秘匿性をもつと同時に、ある程度の顕在性ももつ。下の層は隠され、その全ての層の全てが露わになっているわけではないものの、多層的であることはうかがえる程度には露わになっている。ある層は顕在的であり、別の層はその一部が顕在化されており、また別の層はただほのめかすように感じられるのみである。つまりそれは、表層をもち、表層からある程度は推測できる中間層をもち、表層からはただほのめかされるのみの深層をもつ、というような多層性だろう。

(層的な多空間性といっても、層は、必ずしも下から上へと順番に重なっているのではない。冠水による絵の具の剥落というのが最もわかりやすい例だが、そうでなくても、部分的に下の層が上へと突出したり、上の層が下へ埋没したりという、上下の層の逆転はしばしば起こっている。単純に重なっているだけでは層的な多空間性とは言えない。)

凝集性をもち、秘匿性をもつ多層構造。しかしここで、最も秘匿的である、最も下にある層にこそその作品の「秘密(あるいは「核」)」が隠されているということではないだろう。それはたんに、その作品においては、たまたま最も下の層にあり、たまたま最も隠されているというだけだ。

とはいえそれは、トランプをシャッフルして、一番上にあるカードと、52枚目にあるカードに違いと同じだと言えるほどにランダムな多層性ではない。それぞれの絵には、それぞれに固有の凝集性があり、秘匿性があり、ある濃厚さと重たさがある。坂田一男の絵は重いのだ。

(たとえば、同様に、並列的であると同時に層的な多空間性をもつリチャード・ディーベンコーンの絵が展示されていたが、この展覧会ではその対照的な軽やかさが際立ち、「おおっ、ディーベンコーンすごくいい」と思わず救いのように---まさに気持ちのいい風が吹いたように---感じてしまう。)

(あるいは、ジャスパー・ジョーンズにおける絵の具の多層性には、坂田一夫のような「重さ」や「凝集性」は感じられない。)

(坂田一男的な「重さ」や「凝集性」は、骨格やプロポーションよりもひたすら「肉」の物質感や存在感にこだわっているようにみえる---ちょっと、初期の荒川修作の「棺桶シリーズ」を思わせもする---ごく初期の裸婦デッサンからも充分に感じられる。)

(また、冠水による絵の具の剥落によって、坂田一男的な「重さ」や「凝集性」とは別の感覚による、新たな層が一つ加わった、とは言えるのだろう。)

●一枚の絵が、既に複数の絵を内側に折り畳んで隠し持っているかのような絵を、何枚も何枚も並べて観ていると、今度はだんだん、この絵とあの絵との違いがよく分からなくなってくる。それはおそらく、深さによる層的な多空間性と、広がりによる並列的な多空間性との区別がつかなくなってくる、ということだ。この感じこそが、この展覧会によって与えられる経験の特異性なのではないか。つまり、一枚一枚の絵にある「重さ」「凝集性」による個別性や深さを感じながらも、同時に、それらを成り立たせている多層性のそれぞれの層はトランプをシャッフルするように入れ替えることもできるのだという交換可能性可能が感じられているのだと思う。この時におそらく、我々が普段「現実」としている(3+1次元の)時空間を超えた何かを触知しているのではないか。

●坂田一男の作品には常に、並列的な多空間(多時間)性と、層的な多空間(多時間)性との両方がある。とはいえ、初期のフランス時代の作品では主に並列的な多空間性に軸が置かれており、最晩年の作品では主に層的な多空間性に軸が置かれている、というように、時間の経過と共に、並列性から層性への軸の移行がみられるように思った。だがそれは、あくまで「傾向」としてそうだということだし、一直線にそうなっているというのではない。坂田一夫の作品のアナクロニックな性質は、展覧会でも強調されている。

●この展覧会を観て、改めてピュリズムの重要性を感じた。去年観た、オザンファンやジャンヌレ(コルビュジエ)の絵を思い出していた。そして、ピュリズム以降の(ジャンヌレを名乗らなくなった)コルビュジエの絵画の展開と帰国後の坂田一男の絵画の展開との違いを思った。