●「神村・福留・小林」がYouTubeで観られるようになっている!! YouTube、すばらしい。これはすごい作品だと思う。
https://www.youtube.com/watch?v=60wLdaAGpmY
ここでは、「アニメ・マシーン」でラマールが書いているように、カメラが、世界をとらえる特権的な視点であることをやめていて、多層的なイメージを構成するレイヤーの一つでしかないものになっている。その時に起こるのは、視点やスクリーンといった、複数のレイヤーの多層的な重ね合わせを受け止める基底面が前もっては成立せず、ただ、それぞれが勝手に運動しているいくつもの層があり、それらが重なったり、交差したり、分離したりする様が、たまたま「あるフレーム」による限定によって、一つの多平面的イメージとして顕在化されるということではないだろうか。つまり、各層が、先験的な形式によって制限されることなく運動しているように感じられる。
それを、アニメではなく実写でやっている。単眼によって世界を見る、それ自体が幾何学的遠近法(一点透視図法)的な装置であるカメラによって撮られるイメージは、カメラの構造によって原理的に遠近法(デカルト的グリッド)的であることが決定づけられている、というのが技術決定論だ。そうではなく、カメラが特権的な視点であることを放棄して、多平面的なレイヤーの一つになることが可能だとすれば、どうすればよいのか。ここでは、視線を遮る複数の平面的遮蔽物と、多数の疑似フレーム的な矩形のもの(黒板や可動机)、さらに巨大な(フレーム外までつづく)鏡を、フレームによる限定作用と連動させて巧妙に使用することによって、三次元的座標空間を攪乱するという手法が用いられている。
(それと、複数の出演者が、出演しながら同時にカメラのオペレーションをするということ――これは只石博紀『季節の記憶(仮)』に通じる――も、とても重要な事だと思う。しかも、撮影しているカメラが鏡に映ることで撮影されてもいる。それによって、カメラの前――対象――と、カメラの後ろ――主体――の区別が相対化され、反転可能になる。)
とはいえ、原理的にデカルト的装置であると言われる実写カメラであっても、実際には、それを用いて多平面的イメージを得ようとする試みは映画史をみればそれこそ数限りなく存在する。でも、これだけシンプルに、ここまで徹底して「三次元空間」を世界の前提(基底)から外すことに成功している例はあまりないのではないだろうか。
この作品は、視点、スクリーン、あるいは三次元的座標空間という先験的形式が作動せず、(ほぼ)平面化された複数の異質な層の、その都度の重なりと分離が、その都度、異なる基底を立ち上げ(これはだから、予めある基底ではなく、複数の層の合成(あるいは分離)の効果によって、事後的に生じる「基底に見えるもの」ということだ、空間―グリッド上にコラージュがなされるというより、コラージュによって生成される非グリッド的空間)、しかしそれはすぐに別の基底へと移行してゆく、そのような運動として感覚されるのだと思う。
(この作品の運動性は、複数の平面の合成によって基底面――地――そのものが移行してゆくところにあるので、基底面上にあらわれる図としての「運動」は、それほど際立ってはみえない。しかし、何かが動いている。)
神秘的な経験、あるいは崇高な経験というものが、人間の感覚能力を超え出て、はみ出してしまうものであるとすれば、ここにあるのは、そのような感覚のホワイトアウトではなく、人間にとって十分に(むしろ容易に)感覚可能でありながらも、感性の先験的な形式の規定から外れているように感じられる感覚・運動、という奇妙な経験なのではないか。
(我々の「意識」は逐次的なものとしてあらわれているけど、もし「精神」あるいは「魂」というものがあるとすれば、それは時間・空間といった形式に拘束される逐次的な意識ではなく、その上位にあって、時空という形式による拘束を越えるものであるはずで、だから、このような表現が感覚させるのは、ある種の「精神」のようなものなのではないだろうか、とか言ってしまうのは、先走りすぎかも……。)
●ぼくは、こういう作品を観ると、真っ先にマティスを思い出すのだけど。
●この作品は、2009年の神村恵のダンス公演の時、隣のスペースで上映されていた。以下は、はじめてこの作品を観た時の感想。
http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20091017