●お知らせを二つ。今出ている「映画芸術」(416号)に、{交錯と断絶」というタイトルで時評を書いています。ツァイ・ミンリャン『楽日』と、アルノー・デプレシャン『キングス&クイーン』について。もともとのタイトルは「地縛霊とモンスター」というものでした。ツァイ・ミンリャンが「地縛霊」の映画でデプレシャンが「モンスター」の映画ということ。(「映画芸術」での外国映画時評は今回で最終回。)それと、8月1日に出た「風の旅人」(21号「LIFE AND BEYOND」)に、「現代生活のなかの絵画」の四回目、「この世界が存在することへの信頼」が載っています。誰でもが、自分の身体という限られた(それぞれに偏差もあり、ブレもある)感覚受容器(そして感覚構成装置)によってしか「作品」に触れられず、あるいは、世界に触れもできないことの、よるべなさについて。(こちらの方は、次の号の原稿ももう渡してあるので、次もあるはず。)
●昨日書いた、岡崎乾二郎の小品についての記述は、ちょっと簡単すぎたかも知れない。昨日ぼくは、小品では《ほとんど筆触のみが何ものにも支えられずに宙空からせり出しているようにさえ見える》と書いたのだが、しかしその前に自分でも書いているけど、《筆触の大きさやそこにのせられた絵の具の厚み(量)は、そのサイズのフレームが支えうる許容量を超えてしまっているようにみえる》わけで、つまり、フレームや支持体が許容量を超えて使用されていること(フレームや支持体が酷使されていること)が、小品を印象深いものにしていて、その時、フレームは「酷使されている」という風に「意識されている」はずだろう。つまり、筆触それ自体が突出しているようにみえるのは、それがフレームに「対して」過剰であることによってであって(あるいは、フレームが筆触に対して「小さ過ぎる」ことによってであって)、フレームに対する意識が、それを観る人から消えてしまうわけではない。岡崎氏の作品が面白いのは、筆触がそれを支えるフレームによって(その内側で)生まれているのではない(という「感じ」がある)というところにあって、だから、筆触がフレームに対して過剰であっても(フレームが筆触に対して小さ過ぎても)、空間的に狭苦しいという感じにはならず、筆触が現実の空間へと広がり出し、それと直接的に関係をもつように見えもする。(今回展示されていた作品のなかには、おそらく意図的に、絵の具がフレームの外まではみ出しているものもあった。)しかし、岡崎氏の筆触は、例えばヴィアラのソラマメ形のように(あるいはライマンの筆触のように)、フレームとは何の関係もなくただ反復するものではなく、常に仮のものであるフレームのなかでその都度改めて配置され、関係づけられることによって意味をもつ。ここに岡崎氏の作品の目眩のようなダイナミックな面白さがある。つまり、基底的な(一つの)空間によっては「繋がっていない」ように見える各自の筆触は、複数のフレーム(複数の空間)を同時に想定することで「繋がる」のだ。しかし、我々の知覚は複数の基底的空間を同時に想定することは出来ず、それは、観者が作品を見続けつつる時間のなかで、いつの間にか関係が動いてゆき(それによっていつの間にかフレームがずれ込むように動いてしまい)、自分の立っている地平が崩れ、新たな地平が浮かび上がってくるような流動的な感覚としてはじめて現れる。絵画の底にあるべき(と、多くの絵画の見巧者が思っている)基底的空間(地)の連続性が揺るがされていたとしても、当然だが、たんにアナーキーに筆触が散っているわけではない。(もともと、絵画の基底的な空間=地の連続性というのは、アメリカ型フォーマリスム的な言説によって必要以上に強化されてしまったもので、それ以前は、複数のフレームが同居することの方がむしろ普通だったのではないか、というのが岡崎氏の主張であろう。)
(ゆーじん画廊での、岡崎乾二郎/おかざきけんじろう展は、8月10まで。月曜休み。)