2020-01-05

●先週、見逃してしまった「日曜美術館」の岡﨑乾二郎の回の再放送を観た。ここで岡﨑乾二郎もぱくきょんみも、一貫して「芸術」という言葉を使っていたことに感銘を受けた。

ペインティングの作品をつくっているところが、ちらっと映し出されていた。それを観て思ったのは、あの(アクリルメディウムを駆使してつくられる)絵の具の塊は、筆触(タッチ・ストローク)なのではなく、それぞれのひと塊が、それぞれに自律した塑像なのだな、ということだった。筆触にみえる一つの塊は塑像されたものであり、その一つ一つ内に、それぞれに異なる、折り返しや折りたたみや捻りによって構成された固有の空間構造を含んでいる。いわば、一つ一つの筆触(に見えるもの)が、それぞれ「あかさかみつけ」だったり「うぐいすだに」だったりするのだと思う。

(レリーフ作品よりも、浅い奥行きに圧縮されてはいるが、空間構造的には同等の複雑さをもつ。)

だから、同一の「形」が、異なる色彩、異なる位置、異なる関係性において反復されている、というより、ある「空間構造」が、画布のなかで、異なる色彩、異なる位置、異なる関係において反復されているのだと言えるのではないか。

ここで言う「空間構造」とは、塑像された絵の具の塊の、折り返し、折りたたみ、捻れ、によって構成されるリテラルな---彫刻的な---空間構造であって、絵画作品において、色彩や形態の関係性によってたちあがる、イリュージョンとしての空間構造、あるいは、一層目、二層目、三層目、といった絵の具の層的構造、とはまた別の次元にあるものだ。

つまり、岡﨑乾二郎のペインティングにおいては、彫刻的・塑像的にリテラルに構成された空間構造と、絵画的、イリュージョン的に構成された空間構造とが、相互作用しつつ、同居していると考えることが出来る。色彩をもつ彫刻によって構成された絵画。絵画を構成する一つ一つのピースとしての筆触(にみえるもの)の自律性の高さは、その形態や色彩としてのキャラクターによってだけではなく、塑像的空間構造のキャラクターにも由来している。

作品を構成する一つ一つのピース---筆触(に見えるもの)---が既に、それ自体として魅力的な形態的キャラクターをもっているだけでなく、作品全体に匹敵するかのような、複雑な空間的構造をもっていること。そのようなフラクタル性が成立している、のではないか。

塑像的な空間構造の集積-関係によって絵画空間がたちあがり、絵画空間-関係の中から個々の塑像的な空間構造が浮かび上がってくる。このような、異なる空間構造の間で起こる相互貫入的な「空間のたちあがり」の循環は、全体と細部との間で生じる拮抗というよりも、ある細部と別の細部との関係を観ている時にも、その過程で頻繁にみられるはずだ。

岡﨑乾二郎のペインティングを目の前にしている時に感じる、目眩のような、圧倒的なとりとめのなさ、あるいは、非常に魅力的なのだが、その魅力の在処をどこに着地させればいいのか分からないもどかしさ、解決されないもやもやとふわふわ。これらを生じさせる原因のひとつに、上記のような構造があるのではないか、と、テレビを観ながら思った。