08/03/10

●昨日の日記で、マティスにおいて、光源が消失することと、明暗法からほぼ完璧に離脱することとの密接な関係について書いたけど、もう一つ、そこには視点の消失ということがあると思う。光源が消失すること、明暗による画面の制御から離れること、視点が消失すること、の三つは、不可分に絡み合っている。
●ただ、これは決して特異なことではない。むしろ、フレーム全体がパースペクティブによって制御され、ある一つの(あるいは複数の)光源が特定され、物の立体感が光と影との対立によって浮かび上がる、という形で絵画が組織されることの方が、ルネサンス以降のヨーロッパ絵画という特異な形式であるのだ。しかしその形式があまりに見事な形で洗練され、その迫真性が高められ、さらに、おそらく写真の発明ということによって強化されたということもあって(写真によって得られるイメージは、このような西洋絵画の技法によって描かれるイメージととても近いもので、写真によってその正当性が保証された)、あたかもそれこそが正しい絵画であるかのように思われた。だがもともと、絵によって表現されるイメージは、写真的な視覚とは別のものなのだ。(例えば、似顔絵がとても「似ている」と思える時の似ているは、写真が本人の証明となる、というのとは、まったく別の原理であろう。「似ている」という感覚は、決して写真装置によって保証されるものではないのだ。)パースペクティブとは、写真装置の原理ではあっても、決して「視覚の原理」だとは言えない。とはいえ、一度、徹底してパースペクティブと光による形式を通過した後で、それが放棄されることと、最初からそれがないこととは、全く異なるだろうけど。
ルネサンス初期の絵画がマティスの形式に似ているように感じられるのは、ルネサンス初期においては、パースペクティブや明暗法は、あくまで部分的に利用されているのであって、画面全体を制御するところまで体系化されていなくて、特に大画面の壁画などにおいては、その技法は折衷的であり、複数の原理の雑居状態として成立しているということろだろう。ルネサンス初期とマティスとが異なっているのは、マティスの前には油絵の具というメディウムがあり、油絵の具によって実現されてきた、ヨーロッパ絵画における、光の屈折や空気の厚みの高度な表現の達成があったという点だろう。
確かに、マティスが明暗法やパースペクティブから離脱することが出来たのは、ルネサンス初期の絵画から得たものが大きかっただろうと思われる(浮世絵などからの影響もあっただろうし)。しかし同時に、マティスの色彩には、(イタリアではなく主に北欧において発展した)17世紀以降の油絵の具による絵画の、明暗とはまったく別の原理によってなされる「光」の表現や、「空気の厚み」の表現の達成が深く響いていることも見逃せない。
通俗的な意味でキュビズムが説明される時、よく多視点ということが言われる。例えば、この花瓶を、上から見た時と、左から見た時と、右から見た時の像が、画面の上で繋ぎ合わされている、と。(しかし本当は、すぐれたキュビズムの作品においては、像=図が分離-接合されているのではなく、それを成り立たせている異なる空間=地=文脈こそが分離-接合されている。異なる空間が接合されているということはつまり、驚くべきことにそれが成立していることを保証する「何の根拠も無い」のだ。それは常に繋ぎ間違いだ。)だがマティスは、このような意味でも、キュビズムとはあまり関係がない。マティスにおいては、切子状の複数の空間-地が分離-接合されているというよりは、見ることは、視点という特定の点を失い、画面全体に漂ってひろがる。見ている場所そのものがない。つまり視点がない-成り立たない。それこそ本当に、夢のなかでなにかを見ているようですらある。人が何かを見る時、それは決して、視点があり、対象との距離があり、フレームがあるというような、カメラ的な視覚と同じことではない、もっとあやふやでとらえどころのないひろがりのなかで「見ている」のだ、ということが分かる。いや、あやふやなひろがりのなかで「見ている」という状態が雲のように浮かび上がる。(特にマティスのアトリエを描いた作品、「茄子のある静物」や「赤いアトリエ」あるいは「ダンス」のような大画面の作品において。いやあるいは「ピアノのレッスン」とか。挙げれば切りがないのだが。)
しかし、これはあくまで作品の構造の問題であって、それを具体的に「見ている」観者は、どうしたって特定の位置からそれを見ているのだし、三次元的な時間、空間に縛られてしまっている。「生きている人間」には、どうしたってある「視点」が存在してしまう。そうである限りにおいて、マティスの作品を具体的に「見る」時、それは常に「見切れない」という形で見るしかない。だがそれは本当だろうか。見ることがフレームから切り離される瞬間というのが、マティスを見るという経験のなかにはあるように思われる。マティスの絵を見ることによって、観者は、生きている人間からほんのすこしだけ離脱する、自分の目の位置という三次元的な時空から、ほんの少しだけ離脱する、のではないだろうか。
マティスを見る時、もしかすると目ではないものによって見ているのかもしれない、とさえ思う。(視覚像として構成される、視覚ではないもの。)デュシャンマティスの色彩について次のように言う。
マティスの色彩は....その場では捉えようがありません。あれは透明で、推察するに、ごく薄い色彩です。しかし、あなたが彼の絵の前を立ち去った後になって、はじめて、絵があなたを捉えて離さなくなることがわかるでしょう。....マティスへの私の興味は尽きるところがありません。》
勿論、デュシャンにとって「極薄(アンフラマンス)」というのは重要な概念だ。《ヒトガ立チ去ッタ直後ノ椅子ノ暖カミ、ソレハ、極薄デアル》。つまり、今、そこには居ない人物の気配のようなマティスの「色彩」。