08/03/11

●買物のために部屋を出たら、あまりに暖かくて天気がよいので気持ちよくなって、花粉の脅威など忘れて、そのまま隣りの駅まで歩いて行き、大型書店をのぞいて、都まんじゅうを買って食べながら歩いて、二時間くらいの道草の末に買物をしてから帰った。案の定、夜には大変なことになった。
山崎ナオコーラ「長い終わりが始まる」(「群像」2月号)。この作家の小説をはじめて読んだのだけど、事前に勝手に思っていたのとはイメージが違っていた。もっと、のらりくらりと掴みどころのない、エキセントリックな感じの作風なのかと思っていたら、凄い生真面目でストレートな小説なので驚いた。
書き出しの部分とかは、のらくらした感じでとても読みにくい変な文章で、この「変」な感じこそがやりたいのだろうと予想していると、だんだん切迫したような感じになってきて、よくも悪くも実直な感じで、押し込まれるように、読む姿勢を正す。
書き出しの部分がすごく読みにくいのは、情報を提示する順番やタイミングが変だからで、状況がなかなか呑み込めないように書かれている。いきなり小笠原という主人公の名字が示され、ついで、大学で同学年の宮島と田中という人物と話す場面があるのだが、この、三人で話している場面でもまだ、小笠原が男なのか女なのか分からない。宮島は「宮島くん」と呼ばれ(同学年の男性を「くん」づけで呼ぶので小笠原は女性なのかなあと、ちらっとは思う)、田中は自分のことを「オレ」と言うので男だと分かるのだが、最初からずっと出ずっぱりの小笠原だけは、マンドリンケースにローソンの袋をひっかけて持っているという細部以外は、具体的にその姿がイメージ出来ないようになっている。(映像的にイメージすれば、主人公のところだけモザイクがかかってるみたいだ。)そして、この三人の会話の場面が終わってからようやく、ほとんど説明的な口調で、小笠原の年齢や容姿が告げられる。(しかもそこには、《背も手も小さくて、だからマンドリンが弾き易い》という、この時点では無駄口としか思えない説明が混じる。勿論それは、今後の展開の先触れのようなものでもあり、全体としては無駄ではないのだが。)
だいたいずっとこんな感じで、無駄口のような細部は見えてきても、イメージを限定したり固定させたりするような描写がないまますすみ、そして唐突なタイミングで、さらっと重要なことが告げられたりする。えっ、そんなことここで言うの、みたいな。印象的な描写や記述を重ねてイメージを厚くしてゆくような文章ではなく、不安定な転がり方をしつつ、意外な情報を小出しにしてゆくことで、その都度局面を新鮮にする、という感じと言えばよいのか。やりすぎるとトリッキーな感じになってしまうと思うけど、この予断を許さないような変な転がり方が、描かれている内容と密接に関連しているので、納得が出来た。
ずっと主人公が出突っ張りで、三人称の語りは時に主人公とほぼ一体化して一人称に限りなく近づくかと思えば、突然冷静な(説明的な)コメントがはいってりして、語りと主人公の関係も不安定で、それが、主人公が世界に対して持つ解離的な距離の感触を伝えることにもなる。
描かれているのは、ちょっと痛い感じに生真面目で、まわりの見えていない女の子の、恋愛というか、恋愛以前の人間関係のようなものなのだけど(というか、こういう言い方がダメで、関係はそれぞれひとつずつ別ものだということが書かれているのだけど)、この女の子が、ちょっと痛い感じに生真面目というか不器用だということが分かるのは、けっこう読みすすめてからで、つまりここでも、キャラクターの属性を限定するような描写や情報を事前に読者に知らせることなく、それは常に何歩か遅れて示される。(登場人物の印象が鮮やかに刻まれる、ということがない。)つまり、主人公に対して、ある程度、この人はこういう人なんだろうと思って読み進めることが出来なくて、はじめて会った人と話しているような、探りながらという感じでずっと読むことになる。(例えば、主人公の小笠原は、冒頭の場面で既に田中という男の子に好意を持っていて、田中も既にそれを知っているのだが、読者には「隠されて」いて、読者が「知らされる」のは、もっと後になってからなのだ。そういう「雰囲気」が事前に醸し出されることなく、いきなりその事実だけがポンと投げつけられる感じ。まあこれは、小笠原と田中との間に「友人」としての関係が確立してしまっている、ということの表現でもあるのだが。)
登場人物はしばしば、堀之内とか桜井とか、ぶっきらぼうに名字だけで示され、まあ、大学のサークル内の狭い話だから、それが大学生だろうとはすぐに分かるけど、それ以上の説明もないままで、男か女かも、後になってやっと分かったりする。桜井について小笠原と田中とが話す場面でも、桜井がサークルの後輩だという以外の事前の情報がほとんどないので、まったくの部外者が知らない人についての会話に立ち会わされているような感じで、イメージが掴めないまま読むことになって、その後、田中が桜井に告白した、みたいなことで、ああ、あの会話はそういうことなのかと振り返って理解される。映像だと、説明抜きで人物が出て来てもその「姿」は見えるけど、小説で名字だけポンと出て来ても、それが「人」だということしか分からない。そういうことを、かなり意図的に利用している感じ。小説だと、名前の文字面というのがそのままその人物の視覚像の代用みたいなところがあるのだけど(例えば音生とか芽衣とかいう名前で年配の女性はイメージしにくい)、この小説では、小笠原とか田中とか桜井とか堀之内とか、割とよくあるが故にイメージ喚起的ではない名字が採用されていて、名前だけで人物のイメージが特定されないようになっている。
イメージをもたないままで読み進めることが強いられる、トリッキーとも言える記述のスタイルが、しかしそれほどわざとらしくは感じられないのは、この小説ではきわめて真面目に、ケレン抜きに、この不器用な女の子と男の子との関係が描かれているからだろう。(とはいえ、あくまで女の子目線の話なので、田中という男の子の方の「捉えどころのなさ」は、あまりにとっちらかっていて、それ自体としてリアルではないように思われるが、それはあくまでこの女の子からみて、相手が捉え難いということの表現だとして考えれば、全然アリだと思う。)真面目すぎて、読んでいて恥ずかしくなってしまうくらいなのだった。ここで恥ずかしいというのは、真面目であることが恥ずかしいのではなくて、真面目さが生々しさに繋がっていて、その他人事とも思えない生々しさに照れることなく正面から向ってゆく感じを、自分の恥ずかしいところを突かれるようで、恥ずかしく感じてしまうということだ。だからここで恥ずかしいとは、読んでいるぼくが押し込まれているということで、つまりリアルだということだ。この小説の、イメージを限定させない不安定で捉えどころのないトリッキーな記述は、のらりくらりした調子のためにではなく、この生真面目さに読者を直面させるためにあるように思われた。だから、読んでいる途中で思わず姿勢を正す事になった。
ただ、そうとは言っても、生真面目すぎてちょっと世界が狭いんじゃないかという気もする。もうちょっと、遊びや余裕やひろがりがあってもいいんじゃないか、と。で、このように、この小説に対する感想と、小説の主人公の女の子についての感想とが、ほとんど重なってしまうようなところが、この小説の切迫的ななまなましさ(リアルさ)でもあると同時に、ちょっと間口が狭いようにも感じてしまうところでもある。あと、音楽(演奏)の話がやや具体性を欠いていて、割と簡単に比喩に流れがちなところとか、冒頭のマンホールの蓋に溜まった雨水の印象的な描写が、すぐ後の《人間も同じようなもので、この街に溢れる男女は...》みたいなところで簡単に意味によって受けられてしまうところことか(この段落はない方がいいと思った)、不用意に「文学」になりすぎちゃってるんじゃないかと思ったところもあった。