絲山秋子『ニート』

絲山秋子ニート』。『逃亡くそたわけ』はとても面白かったけど、『ニート』は、『逃亡くそたわけ』で上手くいっていたことのいちいちが「技巧的」に浮いているように感じられてしまった。(例えば、方言や地名の使い方とか。)この作家が、とても上手な作家であることは理解出来る。しかし、特に「へたれ」なんかは、技巧に技巧を重ねただけのような小説で、そこからは村上春樹の短編とそっくりな空疎さが感じられてしまう。(どうでもいいことではあるが、ぼくは「へたれ」を読みながら、高校生の時、夏休みの宿題として、これとすごく似た感じの小説を書いた恥ずかしい過去を憶い出した。似ている点は、主人公が長い距離を電車で移動しながら、近い過去や遠い過去を断片的に憶い出す、という構造と、主人公とその恋人(女性)との関係の「距離感」なのだが。そして「へたれ」がつまらない点もまた、このような構造の安易さと、主人公がもつ女性のイメージの陳腐さなのだった。で、「へたれ」の主人公の女性に対してもつイメージの陳腐さが、すごく村上春樹っぽいのだ。ちなみに、ぼくが高校生の時書いた恥ずかしい「宿題小説」は、村上春樹の短編「めくらやなぎと眠る女」を下敷きにしていた。)
この短編集でぼくがもっともグっときたのは「ベル・エポック」(ぼくはこういう「お話」に凄く弱い)で、これこそまさにウェル・メイドの技巧的で決まり過ぎの小説なのだけど、「ニート」と「2+1」との間に挟まれていることで(特に、「2+1」で男性が去ってゆくさみしさと、「ベル・エポック」のラストとが響き合って)、独自の効果を生んでいる。
読者に対してずっと隠されていた情報が、ある時にふっと明かされて、そのタイミングによって「ある効果」が生まれる、という技法が「ベル・エポック」と「へたれ」で使われていると言ってよいと思う。(一方は、登場人物が隠していたことをももう一人の人物が見つける、という形で、もう一方は、登場人物の「気が変わる」という形で読者に開示されるのだけど、その「意外性」によって小説が成り立っているのだから、それはあらかじめ作者によって仕込まれた意外性であり、つまり作者は書いている時に既にそれを知りつつ、読者には「隠して」いたわけだ。)「ベル・エポック」ではそれは抜群の効果をあげていて(というか、この小説は「それだけ」で成立しているとさえ言える)、ズルいと思いつつも思わずグッときてしまうのだが(つまり、この「予め仕込まれた発見」は、現実的な、新たなものの到来としての「発見」にきわめて近い驚き=感情を感じさせるのだが)、「へたれ」ではたんに小説を終わらせるための方便(技法)として採用されただけとしかみえなくて、説得力がない。
ニート」「2+1」「愛なんていらねー」というような世界を描くなら、絲山秋子よりも大道珠貴の方がずっと面白いようにぼくには思えてしまう。同じ様に、独自のだらしなさと、それと密接に関係する不思議な受容性(寛容さ、あるいは現実に対する無気力さ、つまり結局、だらしなさ、なのだが)をもった女性の主人公が登場するのだが、絲山氏の人物の方が、まだ、自己をコントロールしようとする「感じ」や、自分の行動や欲望、感情などを自己分析しようとする「気配」があるのだが、大道氏の人物たちは、それをより徹底して放棄しつつ、しかしその感情の温度や認識への欲望の低さの裏にある、より激しい振動のようなものが強く感じられるのだ。それはおそらく、大道氏の人物よりもインテリ(作家や大学の先生)である絲山氏の人物による自己制御や自己分析が、小説としてほどよいという程度に留まっているためではないかと思う。
とはいえ、ぼくは「ニート」や「2+1」の連作をこそ、絲山氏はもっと追求するべきではなかったかと思ってしまう。「ベル・エポック」や「へたれ」などを混ぜて、へんに技巧的な編集をしてしまうのは、上手であることの弱さと感じられる。「愛なんていらねー」については、「2+1」にスカトロをまぶした別バージョンとしか思えず、同じ短編集に納めるのはどうかと思った。