昨日からのつづき、大道珠貴『ひさしぶりにさようなら』

(昨日からのつづき、「群像」12月号、大道珠貴『ひさしぶりにさようなら』について)
●『裸』に収録されていた『スッポン』でも、自他が未分化なまま集団の内部でのみ生きているような人たちが描かれていたのだが、主人公だけはその集団から離れた場所で「ひとり」で生きていた。言葉というものがある「分離」によってしか駆動しないとすれば、主人公と故郷とを隔てるこの距離こそが、小説の記述を可能にしていたと言える。『スッポン』の主人公はひとりでいることによって、とりあえずの個体性を確保していたから、そこに一人の人間としての感情や気分の揺れ動きが生じ、このひとりの人物の行動や感覚、感情の動きによって小説が動き、震え、そして統覚や持続が保証されていたと言える。しかし、『ひさしぶりにさようなら』の主人公である「都」は、決してひとりになろうとはしない。確かに、他の兄弟姉妹は結婚して子供が出来ても依然として実家に入り浸っているのに比べれば、都は実家から離れるために結婚を決意し、実家から「2時間」の距離にあるマンションを購入する。しかしこれは、実家からの分離ではなく、なんとなく離れてゆこうとするベクトルがあるという程度に過ぎない。分離は言葉を必要とする。『スッポン』の丸子が、ひとりでいるために周囲の者たちと無駄とも言える言葉を延々と交わすことが強いられているのに対して、『ひさしぶりにさようなら』の都はほとんど言葉を発することがない。夫の集一との関係においても、ただ二人は黙って一緒にいるだけなのだ。都は常にある集団の一員として存在している。実家の大家族の一員であった都は、結婚によって夫婦の一員となり、夫が家に寄りつかなくなると、今度は夫の実家の一員として紛れ込む。これは『スッポン』の丸子が職場を転々としながらもいつも「ひとり」であったことと全く違っている。だが、この小説の都が、終始徹底してある集団にいつの間にか未分化に溶け込んで「まったり」しているような人物でありつづけるかと言えば、そうではない。小説の終盤に、僅かではあるが決定的な変化が描き込まれている。それは子供との関係による。都は子供が産まれたからといって育児に精を出すような人物ではない。死なない程度にほったらかしておく。だが、子供が成長してくるにつれて、都は今まで他の誰とももったことのない関係を子供ともちはじめるのだ。それは「相棒」のような関係と言って良いだろう。相棒とは、互いに一対一の独立した者同士の信頼関係であろう。(都は夫との間にもこのような関係をもっていない。都にとって夫とは、近くにいてくれたり、離れていったりする、ぼんやりと好ましい存在に過ぎない。)この関係が、都を僅かにではあるが変質させるのだ。
●『裸』に収録されていた3編の小説では、とりあえずのものとはいえ主人公は「個体」として成立していたので、主人公の内面や感情の揺れ動きや、その変質、成長などによって小説を持続させ展開されることが可能であった。しかし『ひさしぶりにさようなら』では、主人公である都さえもが、自他が未分化な集団の一員である。だからここでは内面や感情のドラマなどハナから成立しない。(勿論、内面を欠いた面白い「物語」が展開される訳でもない。)ここで小説の持続を保証しているのは、一定のテンション、一定のリズムで正確に進んで行くような、ほとんど機械的な記述の規則性であるように思われる。この小説における記述のリズムは見事に安定していて、まるでベルトコンベアーに載せられたように読み進んでゆくことが出来る。文章のリズムも、そこで描かれている事柄が進展する速度も少しも揺らぐことがない。この小説の登場人物には「厚み」がない。都、集一、伸一、蘭子、などと名付けられた人物たちは、ほとんどその名前=文字以上の意味をもたないかのようだ。この薄っぺらさは、存在と切り離された記号的(スーパーフラット的)な薄さではなく、「人間以前(以後?)」の状態としてのヒトの、厚みとは無関係に存在する捉え難さによって生まれる「薄さ」であるだろう。この「薄さ」に力強い形象を与えているのが、この小説の機械的に進行するような文章の流れであるように思う。一定のテンション、一定のリズムで正確に進んで行く文章のなかで、厚みのない人物たちが何の疑問も逡巡もなくポンポンと動いてゆき、それと同時に、まるで他人に見られることを全く意識されないまま雑然と散らかった部屋のなかの物のように、さまざまなイメージがぎっしり詰め込まれ、散らかっている。その一つ一つのイメージは、決して特異なものではなく、どちらかというと「親しい」ものでさえあるかもしれないのだが、それが、整然と進行する文章のなかに雑然と散らばっていて、その散らかり具合が何とも気持ちが悪く異様なのだ。身の回りのあれやこれやのこまごました物たちが、整理不能なほど溢れて散らばっていることの息苦しい気味悪さ。この、圧迫される程のひしめき溢れる感覚が、登場人物たちの薄っぺらであることの存在の強さを支えているように思う。