2023/10/07

⚫︎「私鉄系第三惑星」(長澤沙也加 『太宰治賞2021』所収)を読んだ。

この小説のトポロジーは一本の私鉄沿線上に配置されている。主人公(今年二十七歳になる女性)の、(1)実家、(2)実家を出て最初に住んだアパート、(3)現在住んでいるアパートと職場、(4)かつて働いていたフレンチレストラン、のすべてが同じ私鉄沿線上にあり、さらに、(5)実家を出て最初に住むはずだったが直前でキャンセルしたアパート、もまた、同一私鉄沿線にある。そして(3)の現在住んでいるアパートと、(5)の住むはずだったがドタキャンしたアパートの最寄駅は同一であり、(2)のアパートに住んでいた頃に読んだ小説のなかに、(3)、(5)の最寄駅のロータリーの描写があった、と記されている。

これは、私鉄線路という一本の線の上に、一部重複した五つの点が配置されているというシンプルなものではない。現在住んでいる区域と、かつて住むはずだったが住まなかった区域が重なっており、そしてさらにその区域は、前に住んでいた区域で読んだフィクションとも重なっている。つまり、今、住んでいる空間は、現実、反実仮想、虚構という三つの層が重ねられた空間であるのだ。今いる「ここ」は、かつているはずだったのにいなかった場所でもあり、かつていた場所から夢見られた場所でもある。タイトルの「第三惑星」とは、現在の住居が主人公が住んだ三つ目の場所であることとと同時に、三つの層が折り重なった空間であることも示しているのだろう。

だから、主人公=話者である「わたし」もまた、現在そうである「わたし」と、そうでなかったがそうであったかもしれない別の「わたし」と、かつて住んでたい場所から予言的に夢見られた「わたし」という、三つの層が重なっていると考えられる。これはあくまで潜在的にそうだということで、普通に読めば、現在そうである「わたし」が、過去を回想したり、そうではなかったがそうであり得たことについて思い巡らしているようになっている。

というか、この小説の物語的展開としては、三つの層の間をふわふわと漂っているような「わたし」が、けっきょくは「現在そうであるわたし」であるしかないことを思い知らされることで終わる、という形になっている。

(正確には、「小さな白い店」での空回りする独白の場面で「今あるこのわたし」でしかないことが思い知らされた後、「ふじこさん」との対話によって宇宙論的な開けが示されたと思うと、急転直下して「わたし」が独我論的に閉ざされて終わる、という感じだろうか。)

だが、ぼくにとっての興味は、そのような結末の付け方ではなく、その前にある、三つの層が重なり合っている世界の方だった。主人公の「わたし」は、職場の同僚である五歳くらい年上の女性「玉井さん」にある特別な感情を持っている。それは「親密さへの予感」のようなもので、この人とは仲良くなれるに違いないという感触だ。しかし、互いに無口である「わたし」と玉井さんは、未だ大して会話を交わしたことがない。玉井さんへの親しさは、予感であり、期待であり、妄想である。予感であれば現実味があり、未来に実現可能性も高いが、妄想であれば現実とは切り離されており、実現可能性も低い(虚構性が高い)。実際に「わたし」と玉井さんとの「親しさへの可能性」が、予感(現実)に近いのか妄想(虚構)に近いのかはよくわからないまま小説は進む。親しさの現実性の度合いが識別不能であることと、「わたし」にとっての「今、ここ」が、現実、反実仮想、虚構という三層の重なりでできていることが相まって、この小説の独自の多元的で相互包摂的な世界が形作られている。

予感でもあり、期待でもあり、妄想でもある、そして、現実でもあり、反実仮想でもあり、虚構でもある。「わたし」は、複数の現実性の度合いと複数の次元を融通無碍に移動できるが、それは決定的な「今ここ(=現実)」を持たないということでもある。このことが、なぜか『「わたし」は常に大勢のうちの一人であり、誰かにとって特別な一人にはなれない』というネガティブな感情に転化される。この転化が、この小説の一つのキーとなる。「わたし」は、玉井さんとの関係のなかに高校時代の友人との関係を投影しているのだが、その友人については次のように書かれる。

《その、似てるに敏感だった子は、高校に入ってすぐに仲良くなって、面白い子だった。》

《(…)初めはわたしだけがその子の面白さ、というか、その時点では面白い面白くないというより、居心地の良さとか喋りやすさで一緒にいて仲良くなっていったのだけど、その子の面白い雰囲気がだんだんと他の子にも伝わり始め、その子はわたし以外にも仲の良い子がたくさんできた。》

《面白いその子には、親友と呼べる子がひとりできて、みんなとも仲良く遊ぶけれど、その子と親友は特別で、二人でひとつで、わたしはその、親友にはなれず、その他大勢のうちのひとりだった。》

決して、嫌われたわけでもなく、仲違いしたわけでもない、ただ「特別な一人」になれなかったということが、「わたし」において傷として大きく作用し、それが現在の「わたし」の消極性として現れている。そしてこのことこそが、この小説をネガティブな終幕へと向かわせる最も大きな理由となっている。「唯一の現実」を持たない「わたし」は「誰かにとっての唯一の存在」にはなれない、というそのことこそが「わたしにとっての唯一の(運命的)現実」として強いられる(それが運命であるかのように「わたし」は玉井さんと仲良くなれないし、「小さな白い店」にも受け入れられない)。しかし、その「面白い子」の面白さを一番最初に見つけたのは「わたし」であり、また、その子が人気者になり、さらに親友ができた後にも、大勢の仲の一人だとしても、「わたし」と「面白い子」との関係は持続したのだということの方をポジティブに捉えることができれば、この小説の終幕はまったく違ったものであり得たのではないかと思う。「わたし」は大勢のなかのひとりであると同時に、その「大勢」のひとりひとりが、「わたし」であり得たがたまたまそうでなかった「別のわたし」であり、「わたし」はその多くの「わたし」たちの「間」を生きている、と。

⚫︎「わたし」は、母と一緒に探した「実家を出て最初に住むはずだったアパート(5)」を入居の直前にキャンセルして、ひとりで「実際に住んだアパート(2)」を探して決めた。このときにも「わたし」は、このわたしであり得たがそうではなかったもうひとりのわたしの像を見ている。

《(…)そのアパートの風景を心の中にしまい家に持ち帰り、しまっていた風景を取りだしてひとりコネコネといじくっていたら、小さなキッチンに立つ丸まった自分の背中とか、弱い日差しが入る部屋の真ん中で膝を抱えている自分とか、洗濯機の排水の臭いに気づかないふりをしてベッドに横たわる自分とか、そういう小さな自分がふつふつと湧いて出てきて、次の日にはひとりで急行が止まるほうの駅に降り立っていた。》

このとき、(母と探した)《お城のようなアパート》に住む未来の自分にネガティブな影が差しているのを見てとり、それを避けるように、急行の止まる駅で《とても古いアパート》を見つけ出す。これは、現時点(語りの現在)からみれば反実仮想だが、この選択をした時点では未来への予感である。そして、この時に避けた《お城のようなアパート》は、現在の「わたし」の住まいと職場の中間にあり、「わたし」は自分が避けた「予感/反実仮想」を毎日のように目にすることになる。いわば「予感/反実仮想」と同じ街に住んでいる。

また、「わたし」は、前のアパート(2)に住んでいた頃に、今住んでいる街の駅前ロータリー(3)が書かれている小説を読んだ。これは予感であるというより予兆であり、一種の予知夢のようなものだと言える。

《ある小説を読んで、それを読んだときはまだこの街には住んでいなくて、その小説に、今住んでいる街のロータリー周辺が出てきたのだ。その小説の詳しい内容やタイトルや作者名は忘れてしまったけれど、その小説が日本の推理小説であったことと、今住む街のロータリーが冒頭に出てくることだけは覚えていた。》

《その古いアパートに住んでいたときに、駅前にあった図書館で借りた小説に出てきたロータリーが、今住んでいる街のロータリーだ。》

「わたし」は別に、小説に描かれたロータリーを探して今の街に辿り着いたわけでもなく、たまたま住むことになった街が、以前読んだ小説に描かれていたというだけのことだろう。しかしこの偶然は、フィクション(夢)によって現実が「先取り」されていたかのような感触を「わたし」に抱かせるだろう。その小説は「わたし」の手元にはなく、タイトルも内容も作者名も忘れられているから、そのイメージは出所不明であり、それは夢のような感触を持つものだろう。知覚される現実のロータリーの風景は、同時に予知夢の回帰でもあり、「わたし」の職場は駅前にあるから、毎日予知夢を追体験することになる。

孤独な「わたし」は、仕事がないときはひとりで街を歩く。「わたし」にとって街は上記のように多元的な層が相互に包摂し合うようにして構成されている。そのようにしてある世界のなかでの歩行の描出こそがこの小説の魅力であるように思う。