●どうでもいい話かもしれないのだけど「春の庭」(柴崎友香)の舞台となるアパートは部屋に番号ではなく干支の名前がつけられていて、しかし、部屋は八つしかない。一階の四室が、亥、戌、酉、申、で、二階が、未、午、巳、辰、だから、卯、寅、丑、子、が失われている。ここでは明らかに4(うるう年が巡ってくる周期)×3(アパートの名は、ビューパレス サエキ「Ⅲ」だ)=12(十二支)、という周期が意識されている。
では、失われた四つはどこにいったのだろうか。こういう「意味ありげ」なところに過剰に意味を見出そうとするのはあやういのだけど、それでもこの不在はちょっと気になる。まずわかりやすいのは「丑」で、写真集「春の庭」をつくり、水色の家にかつて住んだ牛島タローの存在(というかその「名」)が穴を補填する。そしてもう一つ、「寅」はアパートの大家の息子、寅彦という名が穴を埋める。これはどちらも「名」であり、アパートの部屋の名がそうであるように、それぞれ、水色の家と大家の家という空間的な位置とその限定(フレーム・テリトリー)をあわしてもいる。残りはあと「子」と「卯」だ。
「子(ね)」を「子(こ)」とするならば、それは、現在、水色の家に住んでいる森尾家の子どもたちを指すといえるかもしれない。
では「卯」は何か。最初、「卯」という字が「卵」に似ていることから、太郎が、父の遺骨を粉にするために使ったすり鉢とトックリバチの巣とを埋めるために水色の家の庭を掘った時に出てきた、卵のような形のたくさんの石が、その位置を占めるのかと思った。しかし、「卯」という文字を検索したところ、ウィキペディアに、「卯」という字は「茂」または「冒」と同じ意味で、もともとは草木が地面を蔽うようになった状態を表していると書かれていた。ならば、芝生に覆われた水色の家の庭そのものが「卯」だと言えるのか。あるいは、雑草の生えたアパートの中庭、蔦が茂る大家の家まで含めて、あるいはそれを越えて広く世界全体へひろがる植物の繁茂こそが「卯」なのかもしれない。
なお、ウィキペディアには「子」は、≪「孳」(し:「ふえる」の意味)で、新しい生命が種子の中に萌(きざ)し始める状態を表しているとされる≫と書かれている。ならば、子(ふえる)と卯(しげる)はどちらも生命が成長してゆくようなイメージで、それは「名」と結びついて場所の限定・特定(フレーム)を示す他の動物たちとは異なり、ネズミと兎とは、フレーム間を(古いフレームを捨てて)横断してゆく動きを表わすものとして、あえて「名」としては失われたままになっているのかもしれない。
(そういえば、太郎が、駅前の商店街の裏にある一際大きな空家の内部を「鮮明な」ヴィジョンとして外から想像する時、そこには≪通気口から入り込んだ鼠の足音≫が響いているのだった。ここで鼠は、フレームの内部に自由に出入りする働き=内側の鮮明なウィジョンを外から得ること、を示すものとしてあると言える。)
●あるいは、「4×3=12」の「3」は、この小説の主な舞台となる三つの階層を表わしているともいえる。一つ目は、太郎の住む部屋を含み四室のあるアパートの一階。二つ目は、「巳」さんと西の住む部屋を含む四室のあるアパートの二階。そして三つ目は、「田」の字のように四つに分割された、アパートを含む一区画だ(アパート・コンクリートの壁のある金庫のような家・水色の家・大家の家)。
ラストシーンで太郎は、この区画の「田」の字の中心に位置する塀の上に立ち、アパートの八室すべてを見渡すことになる。この位置は要するに、「田」の字に分けられた四つの土地も含めて、区分けされてラべリングされた「4×3」すべてのフレーム・テリトリーを見渡せる位置でもある。この時、太郎は、階層の異なるすべてのフレーム(土地・空間的フレーム)を見渡すことのできる一つのフレーム(人・視点的フレーム)となっている。
フレームを見るフレームもまた、フレームによって区分けされる。しかし、そのフレーム内フレームは、自らの位置を移動させることもできる。自ら配置する、配置されるもの。このラストシーンは、この小説のあり様を、鮮やかに示してもいる。