●昨日書いたことではちょっと言葉が足りないと思ったので補足したいのだが、そのためにはネタバレをしなければならなくなる。ということで、以下では『キングを探せ』(法月綸太郎)についてネタバレしています。
●『キングを探せ』には、三つの層があるといえる。一つは真実とされる事のてん末。もう一つは、探偵よって推測(ミスリード)された出来事の構図と流れ。そして、探偵のミスリードを知って、それ利用して犯人が捏造する「偽の真実」。小説の記述はこの三つの層を行き来する。同じ「情報素」が三つのやり方で読みかえられる。読者にはまず、探偵より多くの「真実」が開示され、探偵が読者より遅れてそれを追いかける形で進み、しかし探偵の推理が進行することで、いつしかそれは同化し、読者はむしろ探偵にリードされることになる。その過程によって、読み違えられた構図(フレーム)が読者においてもしっかりと強化される。その間違った構図を利用した犯人の「捏造」が第一のどんでん返しであり、その後に明らかにされる真実が、フレーム内の配置ではなくフレームそのものをひっくり返すことで、第二のどんでん返し(真実)となる。
ここで犯人による捏造は、探偵が推測する間違った構図と犯人だけが知っている真実との隙間を利用してなされる。真実の層のなかに配置された手駒を、間違ったフレーム内に持ち込んだ時に起こる意味(価値)の変化が、犯人たちの利害にかなうからだ。真実のフレームから間違ったフレームへと持ち込まれる手駒は、二つめの殺人における死因の意外性だろう。<「自殺に見せかけた他殺体」であることが明らかであるように見せかけた死体>であるはずの死体が、実は本当に自殺した死体だった。この事実が犯人による捏造を可能にし、捏造を支える根拠となる。
犯人が、死体を自殺に見せかけたように見えて、実は「自殺にみせかけようとした」ように見せかけたのだと思われていた死体が、実際に自殺であった。その証拠(遺書)を示せば、犯人は死体遺棄の罪には問われても殺人の罪には問われない。殺そうと思った時には既に死んでいたのだから。犯人は、自殺した死体を「自殺に見せかけた他殺体のようなもの」に捏造しただけなのだ。このことを利用して、実際には別の殺人を行った者をこの位置へと移動させ、もともとこの位置にいた自分は、殺人の計画はしていても未だ実行はしていないという位置に玉突きのように移動する。そしてその「計画はしたが未だ実行していない殺人」とは、探偵のミスリードによって生まれた架空の(真実のフレームでは存在しない)位置である。それによって殺人の数に対して犯人の数が一つ少なくて済むというトリックだ(三人が殺害されたのに、殺人者が二人しかいないことなる、殺人者を一人減らせる←これは間違い、四人の犯人たちのうち、三人の位置がかわる、追記)。
しかし、このようなトリックを可能にするのは、殺そうと思っていた者が、その犯行が行われようとしたその日に、偶然にも自殺していたという、ちょっとあり得そうもない偶然なのだ。自殺に見せかけようとした他殺体、に見せかけるはずだった人が、実際に自殺していたので、犯人は、既にある自殺した死体を、「自殺に見せかけた他殺体」へと捏造した。このややこしく意味の多重化された「死体」のイメージが、複数のフレームを繋ぐ結節点となり、異なるフレームを交錯させる。つまりこのややこしいイメージの多重性は、作品を成立させるためのきわめて重要な支柱の一つであると言える。
その重要な支柱の一つが、ちょっと普通にはありそうもない偶然によって支えられている。それは、建築物の構造上必要な柱の一つが地面に接していなくて浮いているようなもので、作品そのものを瓦解させかねない危険をもつ。だがぼくには、これがアクロバティックな構造設計によって生じた「無理」などではなく、「宙に浮いていること」そのものがこの作品の基本的なモチーフにかかわっているように思われる。つまり、このことが「もっともらしさとしてのリアリズム」への敵意をあらわしているように思われる。
殺そうとした人が、殺そうとしたその当日に自分で死んでくれた。こんな偶然がトリックを支える重要な支点としてあるとしたら、それはあまりにご都合主義なのではないかと、普通は思う。しかしそれを言うならそもそも、殺人の動機をもった者たちが四人も偶然に集まるという前提からして、まずありそうにないと言える。なのに、なぜ後者は受け入れられて、前者は受け入れならないとされるのか。それに、そんなとんでもない偶然が起こってしまうかもしれないというのが現実であり、時間であり、だから「事件」なのではないか。だとすればそこで問題とされる「説得力」とは本当に現実的な説得力なのではなく、多くの人が「こうであれば現実的だとみなす」という風に社会的に取り決められた「もっともらしさ」のコードの問題でしかない。たんにもっともらしさのコードでしかないものに捕らわれているのがリアリズムだとすれば、それはまったくリアルなものではない。
このような敵意は、子供っぽいと言えば実に子供っぽい。そんなことは誰だって知っているけど喉元までで抑制してあえて声にすることのない事柄に過ぎない。しかし、このような子供っぽいとも言える「もっともらしさ」への敵意が、こんなにも複雑で洗練されたロジックにまで発展するということが、とてもうつくしいと思うし、とても感動的であるのだと思う(子供っぽさを子供っぽく表出しても、それはたんに幼稚なだけだが)。そして、このような子供っぽい敵意に共振してしまう自分を、この小説を読みながら発見することになる。