2022/03/13

●ぼんやりしていると、ニュースを追いかけてしまって戦争の映像ばかり見ることになるので、そうならないように映画を観ている感じがある(戦場で殺し合っている夢を見て目が覚めた)。

『わが友、イワン・ラプシン』(アレクセイ・ゲルマン)をDVDで観た。ペレストロイカを受けて、90年代の初めにゲルマンやカネフスキーソクーロフなどが日本で紹介された時の驚きはとても大きなものだったし、今、改めて観ても、その時の驚きはほぼ同じ強さで反復される。

空間と時間の分節の仕方、運動の分節の仕方、出来事とその展開の分節の仕方、感覚や感情の分節の仕方が、それまで知っていた常識的な映画とはまったく異なっているとしか思えない。だから、何がどうなっているのか、そして、なぜそうなるのか、しばしばよく掴めない。誰と誰とがどのような関係で、なぜ、彼は今このような行為をしたのか、なぜ、それに対してこのような反応を示すのか、この状況は一体どのような方向へと向かうものなのか、等を、因果の展開や感情変化の連続性として捉えられない。誰かが笑い、誰かが怒鳴り、ガラスが割れ、傍らで筋トレをしている人がいて、誰かが歌い出し、窓の外では雪がちらつき、カメラは長いトラックバックをし、誰かが悪夢を見て涙を流す。それらを、だだ、そうだからそうなのだと受け取るしかない。

たとえば、ある作品解説には次のように書かれている。

http://eurospace.co.jp/works/detail.php?w_id=000032

《1930年代半ば、スターリンによる恐怖政治の時代の前夜。お人好しで控えめだが悪に対しては容赦のない刑事イワン・ラプシンは、地方都市ウンチャンスクで街を震え上がらせる殺人鬼を追っていた。そんな折、ラプシンは女優のナターシャと出会い、親友ハーニンとの淡い三角関係に陥っていく。仲間たちの愛と友情を描いた本作は、内容、表現の両面で画期的反響を内外でよんだ。》

この映画からは、確かに上記のような話が読み取れるが、しかし、そのような映画では全然ない(この解説をディスっているのではない、解説などしようがない映画だ)。

とにかく、乱痴気騒ぎ、乱痴気騒ぎ、時々しんみりしては、また乱痴気騒ぎ、そしていきなり阿鼻叫喚、という感じだ。警察の官舎に住む男たちの乱痴気騒ぎがあり、その警官たちと親しい劇団員たちとの乱痴気騒ぎがあり、劇団員と警官たちとの「薪の配給」に関する乱痴気さわぎがあり、犯人の取り調べもまた乱痴気騒ぎとして行われる。そんな騒ぎのなかで、警察と劇団の癒着、一度失敗して干されている女性俳優が再起をかけた娼婦役にチャレンジするのを主人公ラプシン(人物たちは入り乱れ、誰が主人公かよく分からないが)がサポートする様、ラプシンの友人で妻を亡くした文士の自殺未遂騒ぎ、その後なぜかその文士が殺人犯の捜査に加わる、ラブシンと文士と女性俳優の三角関係、女性俳優はまたもや舞台で失敗…等々、出来事が進展していく。

寄り気味の狭いフレームの長回しが多用され、よく動く狭いフレームに人々や物が頻繁に出たり入ったりするし、そこに様々な耳障りな音がいくつも重ねられる。多くの人々の運動の複雑な重なり合いを、狭いフレームがその間を縫うようにアクロバティックに動くことで繋いでゆく。人間の目は、今、注目していないところも周辺視でなんとなく察しているが、カメラの狭いフレームは、その外側が(侵入する音の情報以外は)まったく未知であり、人や物の出入りや、フレームの移動による空間の展開が予測ができない。

人々は感情豊かだが、唐突に、泣いたり、笑ったり、怒鳴ったり、ふざけたりするし、女性俳優は街中で突然「演じ」はじめたりと、めまぐるしく変化するので、観客の感情がそれらとシンクロすることはあまりない。さっきまで自殺しようとして取り乱していた男が、次の瞬間には、酔って荒れた調子で帰ってきた別の男をなだめたりする。そして画面に映し出される、様々なモノたち、土や壁などの質感が圧倒的に強く迫ってくる。脱獄した殺人犯の話題が会話に出ることもあるが、捜査している様子はほとんどみられない。

そんななかで突然、これから犯人の逮捕に向かうという流れになる。なぜか文士であるはずの男も同行する。ここからが阿鼻叫喚だ。犯人たちのアジト、というより砦のようになっているアパート(脱獄した殺人犯を追っているはずだが、なぜか犯罪者集団の摘発みたいになっている)に警官たちが押し入る。この場面は犯人逮捕というよりも戦場の描写のようで、ほとんど市街戦が行われているかのように構築されている。この場面が本当に(アンチスペクタクル的に)すごい。これまでは狭いフレームが多かったのだが、ここにきて、広いフレームと狭いフレームの振れ幅が大きくなり、大きな空間のなかでの空間の展開や運動がより複雑になる。

文士は、大立ち回りには参加せず、やや離れた場所で見守るのだが、その傍らをすーっと逃れようとする者がいるので声をかけて制止させようとして、反撃されて重傷を負ってしまう。それを知ったラプシンは怒り、最重要犯らしいその男を射殺するところまで、場面はつづく。

(この場面からぼくは、8ミリ時代の黒沢清、『SCHOOL DAYS』や『しがらみ学園』の遠い記憶が惹起される。初期の黒沢作品からにじみ出る暴力の徴候の異様な強さ。)

この、乱痴気騒ぎと阿鼻叫喚を、たんにカオスや過剰さと言って済ませてしまうのは違う。これは、このようなものとして厳密に構築されている。強弱や濃淡や緩急のリズム、質感の配置、運動の重なりの構築、フレームの限定と広がりと動き、それらによって、ある一つの質をもった混濁する時空がつくり出される。

(あまりにもよく言われることだが、延長量と強度量の違いということはある。延長量は、1+1=2のように、加算していけばどんどん増える量だが、強度量は「全体の構造」に依存する量なので、ただ足せば増えるというものではない。同じ素材、同じ本数の柱を用いても、その組み方によって建物の強度は異なる。情報量とか作品としての強さは後者なので、力任せの加算によって生まれるものではない。)