●国分寺のswitch pointで「三人の絵」(荒井麻理子、高橋大輔、天本健一)、両国のART TRACEで、益永梢子展、高木秀典展。
●天本健一の作品は、絵画を、基底材(キャンバスや紙とか)があって、その上に描画材(絵の具とか)で描くという形で考えるのではなくて、描かれる色と色、形と形を組み合わせるというのと同じようにして、描かれる物と描く物も組み合わせる、という風に考えてつくられているように思える。
例えば、展示されていた作品は、木の板や紙パレットの上に絵の具が載っているものなのだけど、木の板の上に描くとか、紙パレットの裏に描くというのではなく、木の板と絵の具との組み合わせ、紙パレットと絵の具の組み合わせが、あるタッチと別のタッチ、ある色彩と別の色彩との組み合わせと同様のものとして考えられているように思われた。こういう書き方では分かりにくいか…。
例えば、色のついた紙を切って貼り絵をつくるとして、台紙があって、その上に色のついた紙を貼ってゆくのではなく、直接、色のついた紙同士を貼り合わせて貼り絵をつくるという感じ。青く塗った三角形と赤く塗った円と黄色く塗った四角を直接貼りあわせるとすれば、どれも同等に、互いが互いに対して、形を示すものであり台紙でもある。踏みしめる足であると同時に、踏みしめられる地面でもある、というように。
上記の貼り絵の例だと、すべてがまったく同等であるけど、天本くんの絵は実際には、木の板の上に描かれていたり、紙パレットの裏に描かれていたりするようにもみえる。やっぱり、木の板やバレットは基底材ではないか、と言えなくもない。とはいえその作品は、木の板の上に絵の具によって絵が描かれているというより、木の板と絵の具によって絵が描かれているように見える。紙パレットの上に絵の具で描かれているというより、紙パレットと絵の具によって絵が描かれているように見える。この違いは微妙と言えばとても微妙なのだけど(それって「言い方」の問題でしかないのでは?、と突っ込まれるかもしれないけど)、とても重要であるように思われる。この微妙な違いのなかに、フレームに対する自由さが生まれるように思われる。
また、貼り絵の例で考えると、三角と円と四角を直接貼りあわせるのならば、それは絵画と言うよりレリーフ状の彫刻に近いのではないかとも言える。三つの形の間に隙間が空いていたり、立体的に交差していたりすると、一層彫刻っぽく見えるかもしれない(「あかさかみつけ」とか、そういう感じになる)。だから、木の板の上に絵の具で描かれるのではなく、木の板と絵の具の組み合わせで作品が成立しているとしたら、それは絵画ではなく、彫刻とかオブジェに近いのではないか、とも言える。実際、紙パレットの作品は台座のようにも見える木枠にピンで貼り付けられてさえいる。
しかし天本くんの作品は、それでも、作品全体としてはあくまで絵画として現象しているように感じられる。「絵画として現象する」というのはどういうことなのかと突っ込まれると、「こうだ」と明確には言えないのだけど。
●高木秀典の作品は、その唐突さと中途半端さによって空間を自由にしている感じがした。高木さんの作品は今まで「組立」となびす画廊のグループ展で観ているけど、今まで観た作品よりずっとフレームからの自由が実現されているように思われた。
円錐台というのか、円錐を途中で切ったような突起が壁から出ている。底面が円で上面も円だけど、底面の円より上面の円の方が少し小さい。壁からプリンのような形が突き出しているとイメージすればよいだろう(大きさもだいたいそんな感じ)。プリンの頭に蜜が載っているように、上面が彩色されている。上面が彩色されていることによって、それはまず壁の上のぽっかり浮かぶ、空に浮かぶ月のように厚みのない「円」という形として現れる。その時、厚みは、例えば絵画の木枠の厚みのようなもの、つまり、円という形を際立たせるためのものであるかのようにも見える。しかし、壁に密着している底面の円よりも、突出している上面の円の方が面積が小さいので、側面は斜めになり、完全に側面とは言い切れない。円という形を見る視線は、どうしたってその厚みを形作る側面に目をやることになる。その時、作品は壁の上にぽっかり浮かぶ円(平面)というよりも、壁から突き出した突起物として把握される。つまりそれは、月のように厚みがなく、同時に、突起のように厚みそのものでもある。
奥に長い細長い部屋を入るとまず左側の壁に、小さな八つの突起が目の高さに突き出ている。突起の上面はグレーのグラデーション(あるいは近い色彩の色見本)のような彩色がなされている。その隣の、天井に近いかなり高いところに、それよりやや大きい円をもつ突起が三つ突き出ている。上面には派手な色が塗られている。正面の壁には二つの突起が二段になって並んでいる。上面の彩色は二色のストライプ(光沢ありと無し)に塗り分けられている。右側の壁には左側の高い位置の作品に対応するように三つの突起がやや高い位置に(しかし左側のものよりは低い)突き出ているが、三つのうち一つは微妙に大きさや表情が違う(上面の彩色は光沢のある白)。つまり、4×2(小さな八つの突起)、3×2(対面で向かい合う三つの突起)、2×2(上下で対になる正面壁の突起)と、それぞれ対になっていると言うこともできる。二色のストライプ模様も対だと考える(これは1×2だと考えることもできる)と、様々な対という構造がみえてくる。
サイズは、多少の違いはあるがプリンや紙コップくらいのものだ。つまり、全部で18個もの円が壁の上に浮かび上がっているとはいえ、壁全体の面積からすると微々たるもので、むしろ円という形があることで「壁」そのものの平面の存在感や広がりこそが強調されているようにも感じられる。厚みは数センチで、前述したように、それが円という形を際立たせるものなのか、それとも突起であることを主張するものなのか、どちらともいえない中途半端な感じである。作品が「見せよう」としているものが、円なのか壁なのか、平面なのか厚み(突起)なのか、物なのか広がりなのか、よく分からない。どちらか一方を見ようとしても、すぐにくるっと反転する。
しかも、壁の上に円がある理由がよく分からないし、それが何故、対の構造をもっているのかもよく分からない。それが何故、その厚みをもつのかもよく分からない。それは円だから円なのであり、対だから対なのだし、その厚みだからその厚みなのだとしか言いようがない。そのような唐突さ、つまり、理由や根拠を求めてみても手掛かりはどこにもなく、その道筋が閉ざされてしまっているような切断感が、展示空間を現実的な文脈(分節)から切り離し、浮遊させ、宙づりにする。
それは根拠のない断言のようなものであり、しかしそれは、曖昧さのない断言でありながらも何かを断定することはなく、特定の分節化をすり抜けるような、とらえどころのない断言でもある。「断言する」ことによって既成の分節を切断し、しかしその断言そのものは自らの「断言する」という行為の責任を負うこともなく、何も断定しない。何も断定しない断言が様々な文脈を切断するので、文脈によって形成されるフレームというリミッターの作動がよく分からなくなる。つまり、その空間(文脈)がどのような限定性をもつのかが見えなくなる。あるいは、限定性を支える支え(足場)が分からなくなる。それによって空間はフレームの支配から、一瞬ふっと逃れる(「逃れているかのような感覚」をもつことができる)。