●一昨日、空全体を覆い隠す巨大なUFOみたいな雲がかかっていて、ただ、南側の一部にだけ空が見えていた。そしてその空が、いままでこんな青は見たことがないというくらいに青かった。見ていると不安になり、気持ち悪くなるくらいの、人工甘味料のような青(追記。「人工着色料」だろっ、と突っ込まれました)。
そして、昨日はほとんど雲がなく、すっかり夏だった。天気予報では梅雨明け間近と言っていたが、完全に明けたとしか思えないくらいに夏だった。しかし、今日はそれ以上に夏だった。照り返しがまぶしい。しかし、一昨日のあの異様な青は何だったのだろうか。天気予報で梅雨が明けたと言っていた。
●お知らせ。明日18日に、調布文化会館F8映像ホールで行われる『RED RED RIVER 2』(野上亨介)の上映会で、映画の上映の後、監督の野上さんと対談します(http://d.hatena.ne.jp/rrr2/20100621/1277121376)。この映画には、ぼくとぼくのドローイングも、ちょっとだけ出演しているはずです。
国分寺のギャラリースイッチポイントで木村彩子「いいきせつ」(http://www.switch-point.com/2010/1014kimura.html)。木村さんの作品は展覧会のDMやリーフレットの他にも、本の装画など、印刷されたものでは観ていたけど、それによって「きっとこんな感じだろう」と予想していたよりも断然良くて驚いた。
技術的な話になってしまうけど、まず下地の処理がすごく不思議だった。クリーム色が塗られた上にうっすらと半透明の白がかぶっているような感じ。この、あるかないかのような薄い白によって、なんと言うのか、きわめて薄い透明な紙が画面に貼られているようで、物理的に触れられる表面と、その下に透けて見える下の層との間にあるほんの僅かなズレ(光の滞留)を感じさせる。しかしおそらく、その白は実際には「層」と言えるほどの厚みはもっていなくて、つまりそこに「層のイリュージョン」が発生しているのだと思う。そこに、物理的に層があるのではなく、その層がイリュージョンであることによって、物理的に触れられる表面の少しだけ奥に、まぼろしの、まぼろしであるからこそそこに決して届くことのない層があって、奥にあるこの「後退する届かない層」の、おぼろげで、しかしそれによってリアルであるような感触が、作品の基本的な調子をつくっているように思われた。
そして絵の具は、そのような表面の上に、まるで切り紙を貼り付けたようにして、決して地に馴染ませることもぼかされることもなく、盛られるように置かれている。つまり絵の具は物質として表面からせり出していて、奥へと後退するイリュージョンをもたない。しかし、絵の具が盛られると言っても、それはあくまで薄い紙を切って貼ったような繊細な感じで、決して過剰に前には出てこない。そしてここで、かなり制限された範囲内で行われている、近い色彩同士のわずかな差のつくりかたが、きわめて正確であるように思われるのだ。切り紙を貼ったようでいながら、紙を切ったのではきっとこんなに繊細なコントロールは出来ないだろうというような、タッチと色彩の絶妙な配置がある。
以上のように、これらの作品の主な感触は、工芸的な仕事の丁寧さや美しさなのだが、しかし、作品としての良さは、決して工芸的な処理に還元されない。まず、二重化されることで常に後退する、「遠さ」を感じさせる地ある。そして、その上に、盛るように、あくまでこちら側にせり出すように置かれた絵の具があって、しかし、その絵の具の、(一つ一つの個別性が強めの)タッチや色彩の配置-関係によって生まれる、奥へと後退するのとはまったく違ったやり方で生まれる空間がある。この二つの層が、溶け合うことなく、しかし分離するでもなく、同時にあることで、作品は複雑で緊密でありながらもあやうげな感触をもつ(作品は対象物をもつ具象画であることによってある「まとまり」が保証されるが、しかし、何が描かれているか分からなくなるまで近寄って観たいという誘惑に駆られ、実際に近寄って凝視することによって、さらに魅力が増すように思われる)。その感触は確かな強さをもつように思われる。ここでの強さとは、構造の複雑さと、その実現の正確さのことであって、いわゆる「インパクト」のようなものとはまったく異なる。
作風というか、絵の具の感触や色感はまったく異なるのだが、まるでボナールを観るようなよろこびがある。
●レセプションで、木下美紗都という人のミニライブがあって、どこかで聞いたような感じだと思っていたのだが、『彼方からの手紙』で夜の公園で歌っていた人だと、帰ってから分かった。