●引用、メモ。人間におけるイメージの出現と「手」の関係について。マリ=ジョゼ・モンザン「われわれ人間を誕生させるイメージ」(『SITE ZERO/ZERO SITE』No.3)より。この記述は、「手」によってイメージを生成する画家にとってとても重要なものだと思われる。ここでは、「眼」と「手」と「口」との関係-連携によってイメージが生まれているのだ(「口」と「耳」と、そして「眼」との連携による言語とは、器官を共有しつつも、ことなるメカニズムが生まれる)。そしてこのイメージとともに「主体」が生まれる。つまりここには、ラカンとはことなるメカニズムとして記述される鏡像段階の素描がある。洞窟の、岩壁の鏡像段階
洞窟画が描かれている付近に多く見られる、岩壁に手を当て、そこに顔料を吹きつけて刻まれるネガティブな手形(手の形がくり抜かれた手形)をもとにした、イメージと「主体」の誕生をめぐる考察。ここではまず、太古、ひとりの男が洞窟へと潜り込むことから話がはじまる。《太陽から離れたこの場所は真っ暗》で、《松明の火が揺らめいているため、おそらく、影が躍り、岩壁から束の間の形象が飛び出てくるのが見えるだろう》というような状況で、洞窟の奥へと赴くこの《ひとりの男》は、岩壁の前に立ち止まるのだ。
《岩を前に、壁との対決に途方に暮れて、彼はそこに立っている。ちょうど外の世界で、名前をもたない障害や恐怖の計り知れなさが立ちはだかることがあるように、言葉も発しなければ眼差しももたない堂々たる岩壁が、地平線として遮っている。しかしながら、ここにこそ、彼にとっての支持点があり、彼が出発点とする揺るぎない場所がある。自発的に自分を「埋葬」した後、まさにこの場所から彼は出発するのだ。手を伸ばし、壁を拠り所にしようとしているわれらが主人公は、同じ動作でもって壁から自身を切り離そうとしている。実際、腕ひとつ分の寸法は、触れることで繋がりが作られようとしている平面から、自己を引き離すときの最初の距離でもある。》
《(…)ここ、地下の場合、両目にとっての地平は、腕ひとつ分の長さで慎ましく差し出されたもの以外にはありえない。これは体と体がぶつかりあうほどの内在性である。(…)眼は手のオーダーにしたがっており、そして壁こそが図面であり、眼差しの地平である。周囲には、少し離れると暗闇しかない。》
《第二の局面は顔料に関係している。男は、色のついた物質で手を塗るか、もしくは液体に近い状態の顔料を口に含むか、二種類いずれかの操作にとりかかる。口は、この操作のためには、噛みつき、引き裂き、呑み込む口であることをやめなければならない。口は再び、最初の叫びを発した口---呼吸する口、吸ったり吐いたりする開口部---になる。しかし今や、この口は、口の中を空にするとともに刻印を行うのであり、痰を吐いたり叫びをあげたりする口というわけではない。この口は吸気の力で記号の物質を吐き出すのである。口と手の日々の勤めはもはや捕捉、所有、養育のための強奪ではなく、むしろ口は、二重の放棄の運動を開始する。なにも掴んではいないが、彼自身を岩との関係につなぎとめている手の上に、男は息を吹きかける。》
《さて、第三の場面、重要な場面がやってくる。後退の身ぶりである。手を引かねばならない。身体は、支えとしていたところから離れる。すると男がまなざすのは絵の具に染まった自分の手ではない---というのも息を吹きかけた者の眼前にあらわれるのは、手がそこにはもはやないからこそ見えるようになるイメージ、しかも自己のイメージなのだから。(…)この手の顕現は隠喩でも換喩でもないのだ。このイメージとしての手は、道具製作者としての手が備えている能力を一切もたないが、しかしながらこの手は、手仕事の能力を宙づりにして、自身に向けられる眼差しの潜勢力を指し示すのである。この手はひとつの行為であり、それ自身の動詞を喚起する行為である。この手は、主体が自分の最初の眼差しを自分が身を引いた痕跡に向けて作り出すという、主体の基礎的な能力を示している。己のイメージを作るために身を引くこと。(…)この手が享受する生とは、力をもたないにもかかわらず、ある特異な能力には恵まれたイメージの生でないのなら、いったいどのような生だろうか。この手がもつのは、隔たりの記号を刻み込む能力である。》
《神学は、神の手から、つまり崇高な陶工たる者の手から、人間を誕生させたがる。洞窟内での身振りは、人間を人間自身の手に似せて創造する。(…)ナルキッソスはこの最初のシナリオの役者ではない。洞窟の人間は自身の視覚に対して対象を差し出すわけではない。彼は、自分の最初の眼差しの構成を舞台化する---すなわち、自分の手が最初のスペクタクルの登場人物となるような舞台空間で、己自身を鑑賞者として生み出すのである。(…)この眼差しは、切り取られた対象物にも、周りを取り囲む透明な流動性にも、何ら負うものがない。(…)洞窟の人間は、還元不能で生気あふれる他性---つまり自分自身の他性---へと自分の手を伸ばすことによって、己の地平を作りだし、そしてみずからを誕生させるのだ。》
《イメージをつくりだすこと、それは、人間を鑑賞者として世界に送り出すことである。人間であること、それは、世界の壁面に自分の不在の痕跡を生み出すことであり、主体としての己を作りあげることである。それも、自分を他者のあいだにひとつの対象として思い描くのではなく、他者を見ながら、その他者に対して、記号や痕跡、歓待や退去の身振りといった、ともに分け合うことができるものを見えるようにする者となることだ。イメージを作りだすこと、それは、継起的な後退---つまりは不断の運動---の痕跡を、他者に対して---たとえそれが自己から分離した主体としての自己に対してであろうとも---見せることである。》
●ここで記述される「洞窟の鏡像段階」においては、「ひと」は、(ラカン鏡像段階のように)先取りされた全体性としての自己のイメージ(主体)を見るのではなく、身を引くこと(世界との繋がりでもあり隔たりでもあった「手」を岩壁から引き離すこと)によって「イメージ(眼差しの主体と対象の分離)」としての自己を出現させる、ということなのだ。「身を引く」という身振りによって「自分の最初の眼差しの構成を舞台化」し、自らを鑑賞者と位置づけ、それがイメージ(他者---分離した私と、分け合うことのできる見えるもの)を発生させる。ナルキッソスはこの舞台の役者ではない。