●引用、メモ。『洞窟のなかの心』(ルイス=ウィリアムズ)について。門林岳史「イメージの二つの起源」(「サイト・ゼロ/ゼロ・サイト」(3)所収)より。
《ルイス=ウィリアムズの『洞窟のなかの心』における取り組みとは、西ヨーロッパ後期旧石器時代のいわゆるマグダレニアン文化における洞窟絵画がどのような社会的コンテクストのなかで成立したのか、それがどのように描かれ、眼差されたのかを認知考古学のアプローチで解明しようと試みるものである。》
《こうしたアプローチの前提として、マグダレ二アン文化を担ったクロマニョン人は遺伝学上現代の人類と同じ生物種であり、したがって、ハードウェアとして脳が備える認知機能の生得的条件は同一である、という事実がある。》
●このような事実によって従来の考古学的資料からすれば脱領域的な知識を解明の手掛かりとすることができるようになる。
《まず第一に、実験心理学や脳神経科学の成果、すなわち、実験室環境において明らかにされる人間の認知の過程についての知見を、先史時代の人類が有していた認知能力の理解に直接応用することができる。そして第二に、近代まで現存しており、したがって民俗学的資料が残されている狩猟採集社会についての知識を、先史時代の文化と社会を理解するにあたって間接的に利用することができる。なぜなら、同じく狩猟採集生活を送っていたと想定されるマグダレ二アン文化の担い手たちも、道具の加工と使用、言語の運用、論理的思考などにおいて、少なくとも潜在的には同レヴェルの能力を有していたと考えることができるからだ。》
●そして「内部光学」について。
《洞窟絵画の解釈にあたってルイス=ウィリアムズがまず注目するのは、そうした絵画群に現れる、抽象的にパターン化された幾何学的図形である。こうした図形をめぐっては、それに記号学的解釈を与えるアンドレ・ルロア=グーランの古典的研究が知られているが、ルイス=ウィリアムズはそれとまったく異なった解釈を与える。》
《ルイス=ウィリアムズによれば、それらの文様は、なんらかの儀式化の過程を経て生み出されたものではなく、先史時代の新生人類の視覚経験に対して直接的に与えられたものなのである。すなわち、クロマニョン人たちはこうした幾何学的イメージを幻覚というかたちで実際に視たのであり、壁面の文様は、彼らの視覚に現れたイメージを写し取ったものにすぎないと言うのだ。そして、このように外界に対応物をもたない主観的な視覚の経験のことを、ルイス=ウィリアムズは「内部光学」と呼ぶ。》
《こうした仮説の第一の論拠は、メスカリンやLSDなどの薬物投与下における幻覚についての心理学的研究である。すなわち、ルイス=ウィリアムズが参照している一連の研究から、それら薬物投与下の被験者が視る幻覚には、洞窟絵画に描かれた抽象的文様と酷似したパターンが認められるのである。また、こうした幻覚は、薬物の服用による以外でも、極度の疲労や空腹や、長時間完全な暗闇のなかにいるときなど---つまりは洞窟の絵画を描いたクロマニョン人たちも経験していた可能性の高い状況である---、いくつかの条件で観察されることが知られている。》
《さらに重要なのは、これらの幻覚として被験者の視覚に対して現われる幾何学的イメージには、被験者が属している文化的環境からの影響は認められないと想定される、ということである。すなわち、これらの「内部光学的現象」は、脳神経系の生得的な構造が生み出す純粋に物理的な現象なのであり、そうである以上、同じ新生人類であれば、脳を含む視覚神経系が一定の条件下に置かれれば同じ幻覚を視ると考えられるのである。》
●これが事実だとすれば、それは我々が普通に感じている、記号や文様や象徴、あるいは文化といったものに対する感覚を大きく揺るがすものなのではないだろうか。
《洞窟絵画の源泉を内部光学に求める仮説のもうひとつの論拠は、現存する狩猟採集民族の描く絵画や文様、およびその社会的コンテキストに求められる。すなわち、マグダレ二アン文化の洞窟絵画に観られるのと類似した幾何学的パターンは、近代まで現存していた狩猟採集社会においても広範に確認することができる》。
《例えば(ライヘル=ドルマトフ『天の川の彼方』という本の)一枚目の図版はピアという六〇才代のタユヨ部族によるもので、この「デザイン」は「宇宙の豊饒さの光景」を表象しているという。このようにして、一見抽象的で装飾的に見えるデザインのうちには、彼らの神話体系に深く根ざした象徴的な意味作用が込められていることがわかる。しかしながら、それとともに強調しておく必要があるのは、こうしたデザインに現われる一つひとつの要素は、トゥカノ族の人々にとって、とりわけ若い描き手にとっては、「単に見られたもの」である、ということだ。ライヘル=ドルマトフもルイス=ウィリアムズと同様、そうした幾何学的なイメージと実験室環境での主観的な視覚体験のあいだに明白な類似性があることを指摘している。》
《すなわち、一定程度成熟した文化とそれを支える神話体系があり、それを前提としての数々のイメージ群が象徴作用を帯びたものとして副次的に生産され享受される、というだけではもはやないのだ。イメージは、そのようにして共同体内の文化的エコノミーに包摂される以前に、直接的な視覚経験として与えられている。この視覚経験は、人間がおそらく一定程度にはほかの動物種とも共有する視覚神経系の構造に由来している。》
●以上のことから受ける刺激はふたつある。ひとつは、我々がある象徴的な体系のなかから生み出されるという種類の思考とは別種の思考への突破口が感じられること。我々一人一人は、ある文化のなかから、あるエピステーメーのなかから、あるハビトゥスのなかから、ある階級のなかから、ある世代のなかから、あるクラスタのなかから、生み出される(形作られる)、というだけではなく(勿論、それを全否定することは不可能だし不必要だが)、それとは別の古くて射程の長い水脈があり、それはクロマニョン人たちとも直接的に繋がっている、と。あるいは、ある種の動物とも繋がっているかもしれない。
(これは以上の議論からは飛躍してしまう話だが、例えば、ファン・アイクのような絵を描くには、西洋絵画の伝統的な技術と技法の積み重ねがなければ絶対に不可能だが、ぼくが、目の前にいる猫やウサギの動きをクロッキーとして捉えようとしている時に「していること」(その時、ぼくにおいて働いている何か)は、旧石器の画家たちがバイソンを捉えようとしている時に「していたこと」と、美術や社会の歴史とは無関係に、直接的な繋がりがあると、もし象徴的な文様が、少なくとも「出発点」においては抽象的なものではないとしたら、言えるのではないか。繰り返すが、ファン・アイク的洗練を否定するということ(単純な原始回帰)ではない。ファン・アイクがある伝統-象徴体系のなかで高度に技術を洗練させているその時にも、同時に、クロマニョン人たちを動かしていたものがそこに流れ込んで働いている、という風に多層構造になっているということ。これはある意味あたりまえのことなのだが、歴史主義、社会構築主義、コンテキスト主義、関係性の美学等が行き過ぎるとみえなくなる。)
もうひとつは、「内部光学」というのはいわば、脳が脳自身の構造(の一部)を視る、ということで、そして、イメージや象徴の源泉がそこにあるのだとしたら、我々の世界に対する認識(超越性)のはじまりの部分に既に自己言及的な構造があるということになるのではないかということ。脳は、脳自身の構造を視ることを通して世界を構成し、そこに超越性を発見する、と。この時、脳の内側と外側とが反転するような感触が生まれる。ヒトは、その出発の時点から、自分自身の脳の構造に魅了され、幻惑されている、と。脳のなかに世界が織り込まれているのと同様に、世界のなかにも脳が織り込まれている。
●『誰彼(たそがれ)』(法月綸太郎)を読んだ。ある事件が起こり、その事件に関する一定量のデータが集められる。そのデータから推論される唯一の(あるいは極めて蓋然性が高い)解が導き出される。しかしその次の瞬間、その解を根底から否定する新たなデータが追加される。次に、新たなデータを含むすべてのデータから新たな解が導かれ、しかしまたすぐさまそれを否定する新たなデータがあらわれる。その繰り返し。しかしそれだと原理的にどこまでもどんでん返しが可能なので作品は完結しない。そこで、最後のどんでん返しは、事件の構図そのものは変わらないが、「実は舞台がはじまるより前に主役が入れ替わっていた」という形のどんでん返しになって(積み木の形はそのままの世界がネガポジ反転するような感じになって)、メタレベルの無限退行的な構造に歯止めがかかって終わる。
●例えば麻耶雄嵩においてイメージの二重性は世界の根底に、つまり「はじめ」からあるものなのに対し、『誰彼』においては、二重性(とその反転形としての頭部の不在)は決定不可能性(真理への到達不可能性)としてある。似ているようでいて真逆を向いているのが面白い。『誰彼』では、積み木(推論)が組み上げられては何度も破壊され、また別の形へと組み替えられる。この組み換えは科学的な探究のように原理的には終点がない。しかしこのメタレベルの無限後退は、真理への漸進的な無限接近でもあり、組み替えられる度に少しずつ真理へと近づいてゆくことが、少なくとも期待されてはいる(しかしそれは同時に「ミステリ的解法」のパロディ-自己言及のようでもあり、つまり言説上のゲームでしかないのではないかという懐疑があり、その拮抗する両義性がピンチョン的でもある)。『誰彼』で双子の決定不能性は、二人にとっての兄という第三項に媒介されることによって成立し、弁証法のような展開をみせる。
対して、麻耶雄嵩において真理は「世界の根底にある分裂」であり、それは既に最初に与えられているように思われる。だから基本的に「謎」はない。推論は、分裂している世界の基底から湧き出すように生産される。世界には、推論と、それを生産する起点である分裂(事件=真理)があるばかりだ(分裂は、世界の基底的な条件でもあり、同時に「事件」でもあるようなものだから、そもそも終点がなく、解決不能なのだ)。この時推論は、真理へと近づくためのものではなく、世界を描写するものでもなく、世界から分泌された形成物として、それ自身で発展する。真理(世界そのもの)へと到達するために推論があるのではないから、しばしば(ひねくれた)推論に合わせるように世界(世界の構成)の方が強引に捻じ曲げられる。麻耶雄嵩を読むということは、この「歪み」を通して世界の「分裂」の感触を触知することであるように思う。
法月綸太郎のレアめな作品をもう少し読んでみたいと思った。