07/10/20

●引用、メモ。ジョアン・コプチェク「視覚の筋かい---見ることの支えとしての身体」(『女なんていないと想像してごらん』)。ルネサンスの遠近法が、視覚原理にもとづく古典幾何学ではなく、射影幾何学に依っていたということは、ラカン派的な解釈を超えて重要なことだろう。
《しかし、ルネサンスの遠近法は、カメラ・オブスキュラの古典幾何学ではなく、射影幾何学に基づいていた。(略)ここからも明らかなように、また多くの理論家の主張とは反対に、ルネサンスの遠近法は、絵画平面の外部にあるいかなる点を参照することもなく機能する。いいかえれば、ルネサンスの遠近法は、そこから一定の距離をとったところに位置する、想定された外的な観察者の目に依拠しているのではない。その領野はひとえに、絵画に内在するある点の周囲に構成されるのである。》
《射影幾何学は、表象をのがれるもの、数量化された、表象化された世界のなかに居場所を持たないものを見出すために発明された。これは、射影幾何学が表象不能なものを表象しようとした、という意味ではない。そうではなく、射影幾何学が、この表象不能なものの存在をみずからの手続きにしたがって証明しようとした、という意味である。》
《古典幾何学の目的は、二次元面にできるだけ歪みのないように物体を描く際の助けとなることであった。その関心の中心は、実際の物体に類似した像、あるいは視覚的な類似性を図面のなかで維持することにあった。一方、射影幾何学の関心の中心は、射影における物体の変形を研究することによって、なにが射影の過程で変化せずにそのまま残るのかを確定することにあった。それが維持しようと努めたのは、物体の不変的性質であって、視覚的な類似性ではなかった。平行関係は、射影のもとで維持される特性ではない。なぜなら、この方法の実践によってもたらされるのは、絵画において消失点と呼ばれる、ある一点におけるすべての線の交差であり、水平線と呼ばれる、絵画面を横切る直線の形成であるからだ。》
《先に述べたように、この方法は、物体の視覚的な特性を調べるためのものではない。そのため、それは純粋に視覚的な空間を生み出すことはないし、またその意図も持っていない。従って、これらの絵画に現れる消失点と水平線を、視覚の錯覚として、誤ってわれわれの目に映る物体としてとらえることはできない。消失点と水平線は、どこか別の場所から視覚的領野へと投影[射影]された、見る主体の目を刻印しいてるのである。》
《(...)消失点は、見る主体の場所を表している。それと同時に、第二の点も知覚できるようになる。距離点である。それは、「画家が[自分が描いているもの]を表象するために----a rirarlo、すなわち、そのものの特徴を一つ一つ描写するために----すくなくとも観念的に身を置いている場所」を示している。これこそがラカンが眼差しの点として示した点である。彼がいうように、射影幾何学の関心は測定ではなく照応にあるので、眼差しの点は測量的に決定されない。とにかく重要なのは、なんらかの距離が、あらゆる距離ないし間隔がこの二つの点、すなわち、消失点あるいは見る主体と距離点あるいは眼差しとの隔たりとして絵画のなかに印される、ということである。なぜそうなのか。ルネサンス遠近法の目的は、最終的になんであるのか。それはなにをしようとしているのか。それは、目によって知覚されたものperceptumのなかに、知覚するものpercipiensを捕らえようとしているのである。ここにおいてラカンは、絵のなかへの観者の目の出現だけでなく、目に見える世界への眼差しの出現にも言及する。通常であれば、眼差しは目に見えるものではない。というのも、主体は、眼差しから分離することによって見る主体となるからである。しかし、知覚されたもののなかには、射影[投影]を通じて、われわれが絵に向ける目だけではなく、われわれのほうを見返す目もあらわれる。絵がわれわれを見返すことができるのだとすれば、その理由はただ一つ、われわれが絵から距離をおくことができる、あるいは後ずさりすることができるからにほかならない。結果的にこれが意味しているのは、知覚するもの、あるいは知覚する主体は、単なる点として、静止した抽象的な位置として表象されることはなく、あくまで、見ているわれわれが立っている点とわれわれのほうを見ている点とを隔てる間隔、あるいはギャップとして表象可能になる、ということである。》