●パースの定義では、「記号」とは、何か(対象・記号表現)が、誰か(解釈項)にとって、別の何か(記号内容)を意味する、というものだ。そして、生物は皆、物理的過程のなかに存在するのと同時に、記号的過程のなかに棲む。例えばユクスキュルの描くダニ。ダニは、捕食対象の温度を感知し、その温度をめがけて落下する。温度に反応する、と、落下する、は物理的過程だが、温度を「捕食対象」と解釈する、のは記号的(あるいは、情報的)過程だ。
パースによると記号は三種類あり(イコン・インデックス・シンボル)、シンボルを使うのは人間だけだということになる。
パースの定義するシンボルでは、記号表現と記号内容を結びつけるのは規則や習慣であり、つまり人為的なものとなる。しかし、ウィニコットによる移行対象としての象徴は、必ずしもそうではない。
繰り返される授乳=満足が、乳房という表象=対象を生み出す。この時乳房は、表象(内的)であると同時に対象(外的)である。乳児が、満足を求めて乳房を表象する(想像する)そのタイミングで、的確に乳房が供給されることにより、乳児は自らの想像(表象)が、対象としての乳房を「創造」したという感覚をもつ。ここで乳房は対象であり、同時に、満足という記号内容をもつ記号表現である。この乳房は、「乳房」という言葉では勿論なく、乳房に関する知覚(やわらかさ、あたたかさ、ミルクの匂いや味など)の集合体であり、その知覚的類似性を通じて、他の物、例えば慣れ親しんだ毛布やおしゃぶり、ぬいぐるみなどもまた、移行対象として、満足=乳房を表現する象徴となり得る。
この時、《幼児は自分の身体の部分ではない対象を利用していても、それが外的現実に属していることをまだ十分には認識できないのである》。ここでも、例えば「毛布」が、内的でもあり外的でもある移行対象となりえるのは、「この毛布」であることに固有な、具体的な知覚的感触(においや手触りや視覚的印象)によってであり、だから他の毛布では代替できず、洗濯して汚れを落としてしまってもいけない。
(追記。「満足」のインデックスとしての「乳房」が徐々にシンボル化してゆき、「満足」のシンボルとしての「毛布」へと移行してゆく過程には連続性がある、ということ。)
つまりウィニコット的な象徴(シンボル)は、イコンやインデックスと連続的であり、そこから完全に切り離されているわけではない(他の生物と人間との連続性)。だが、シンボルがイコンやインデックと決定的に異なるのは、記号表現と記号内容との結びつきがある程度は可動的、可変的であるという点だ(しかし、おそらく全く恣意的ということはない)。だからこそ、記号内容「満足」の記号表現が、「乳房」から「毛布」へと移行することが可能になる(そして、表現の変化は内容の変化を伴うだろう)。そのような形で我々は、「対象」としての世界を、「象徴」として発見・創造し、配置してゆく。おそらくこの可動性は、人間にしかない(しかし、ある程度可動的な動物もいるかもしれない)。
そしておそらく、この、記号表現と記号内容の間にある可変性の領域、その可動域こそが、一般的なフィクションの根拠となるものではないか。