●ちょっと、昨日のつづき。ウィニコットは、乳房は子供の「愛する力」によって何度も創り出されるということを書いている。そのようにして、その都度新たに創り出される乳房が、移行対象としての毛布であり、ぬいぐるみであり、様々な遊具であり、道具であり、文化であり、芸術でもある。
この時、想像によって記号としての対象が創造される。想像が創造になるためには、そこに知覚可能で具体的な何か(毛布やぬいぐるみなど)がある必要があるので、それは発見でもある。たとえばウォルトンによれば、木の切り株=熊というルールでごっこ遊びが行われている時、その遊びに参加している誰もが見えない場所に隠れている切り株もまた「熊」である。これが、たんに熊を想像しているだけの場合と、ごっこ遊びとの違いだ。この隠れた熊は、遊びの内部にいる誰かに「隠れた熊」として発見される可能性がある。あるいは、切り株に形の似た大きな石があった場合、ルールが一部変更されて、その石が「銀色の熊」という意味をもつことになるかもしれない。石が、その形状と色から、「銀色の熊」という記号として世界のなかから掘り出されることで、ごっこ遊びの布置が変化する。このことを、物のもつ隠喩的能力によってルールの変更が起ったと言う事ことができる。
ここで遊びは、一人で行うことも出来るし、共同化することもできる。ウィニコットは、遊びは一人が基本であり、一人で遊べないと、共同で遊ぶこともできないとする。ただ、遊びや夢見ることと、空想やマスターベーションは別だとする。遊びはあくまで象徴的な行為で、価値や色付け、欲望などの布置を流動化し、遊ぶという行為を通じてそれを書き換えることだが、空想やマスターベーションは、ある価値や欲望に固着する行為となる(勿論、それが悪いということではない、それどころか、固有の場に欲望が常に---わたしだけのものとして---存在することはその人の生にとって重要な意味をもつ、しかし固着が強くなり過ぎると様々な行為が困難になる)。
(対象aという考え方は、欲望の対象が可動的であることを示すようにもみえるが、しかし、それは欲望の不在の中心としての穴なので、穴の位置は移動するとしても、常にその穴を中心にして欲望の配置が決まるかたちになり、流動する固着のような感じになるではないか。穴ではなく、空白=地という考え方をすると、不在の中心ではなく、「図=物・象徴」と共にあるけど常に図から後退しているから見えない背景、となって、穴ではなく充溢する空白という感じになると思う。ある体系に穴が空いているのではなく、空白こそが体系の地となっている、と。)
フロイトの糸巻き遊び(いないいない/ばあ)は、母の不在という現実があって、その現実に対する無力を、母の象徴としての糸巻きの「在/不在」を象徴的にコントロールするという能動性によって乗り越えようとするものだった。このような記号操作は、メタレベルを形成し、操作するものは記号に対して中枢(主体)的な位置にいる。
(この時、操作者が記号を操作する能動性の喜びは、「母の不在」という現実への復讐という色合いを帯びているのではないか。)
ウィニコットの場合、母の不在はなく、満足の表象と現実的な満足(授乳)とのズレが、移行対象(象徴)の存在を可能にする可能性空間を開く。つまりここでは「母がいる」ことが前提となっている。可能性空間が成立するためには、母(依存可能な環境や、前もって成立している習慣や伝統)が必要となる。そしてこの場合、遊ぶことはメタレベルの記号操作というより、行為を通じて象徴の意味合い(布置)を変化させてゆく実践になる。行為者と記号の、どちらかが主とは言えない。
●永瀬さんと「組立」をやったmasuii R.D.R gallery 、来年で取り壊されてしまうのか。そういえば谷口さんが「組立観に行って古谷さんから直接手渡しで本買いました」と言っていた。会場に来ていたgnckさんも「組立は観ました」と言っていた。もう九年も前のことなのか。
https://twitter.com/masuiirdr/status/836084073932021760
http://www.masuii.co.jp/rdr-top.html