●もう一度改めてケンダル・ウォルトン「フィクションを怖がる」(『分析美学基本論文集』)を読んだ。じっくり読むとつっこみどころもあるし、ちょっと疑問を感じるとこもあるけど、でも、とても面白い。
あと、ウォルトンの議論は、ウィニコットの議論との親和性がとても高くて、しかも互いに足りないところを補強し合う感じになっている。ウォルトンの言う「ごっこ遊び」を、ウィニコットの「移行現象」に、ウォルトンの「小道具」を、ウィニコットの「移行対象」に、ウォルトンが「包括的な(個人的、非公式的な)ごっこ的真理が成立する場」として考えているものを、ウィニコットの「可能性空間・潜在空間(potential space)」に置き換えることだけで、二人の議論はスムーズに繋がってしまうようにさえ思われる。
普通、分析哲学精神分析はとても相性が悪いと思うのだけど、間にフィクションを介することで、互いを補強し合う関係になり得る(直観的な判断でしかないけど)というのも面白い。
●ただ、ウォルトンウィニコットも、「現実」というものを単層的に考え過ぎているようにも思われる。パッと思いつく限りでも、「現実」と呼ばれるものには、「物理的実在性(≒科学的言説)」「論理的な真偽(≒数学的形式)」「技術的な環境(鉄道やインターネットが世界を変えた、というような)」「共同化された、現実と信じられているもの(お金、国家、法、社会的関係、歴史、慣習と常識など)」「わたしにとって、現実として生きられているもの(痛みなどの感覚的質、愛、憎しみ、欲望、信念、死など)」があり、どれも、選択できず(強要され)、影響が大きく、恣意的には動かせない、という点で「現実」と言えるが、それぞれ「現実性」の意味や位相が異なっている(精神分析においては、外的現実と内的現実が分けられているが、それだけでは足りないだろう)。「物理的な実在性」に比べれば、「共同化された、現実と信じられているもの」はフィクション性が高いと言えるが、社会的に生きるしかない人間にとってはむしろ、後者の方が現実性の度合いが高いとさえ言える、など。
(追記。上記のどのカテゴリーからも零れ落ちてしまう現実性として、精神分析における「現実界」というのも考えられるのか…)
フィクションを、「あるフレームによって、現実とはいったん切り離された領域内で起こる出来事」だと言えるとすれば、「どの現実」に対して括弧入れがなされているのかによって、機能も異なるだろう。