2021-03-16

ウォルトンの「フィクション=ごっこ遊び」論が面白いのは、これを元に(ウォルトン自身の議論の展開から離れて)考えていくと、フィクションの作り手と受け手とを区別する必要がなくなるのではないかと思われるから。

作り手と受け手との違いは、ごっこ遊びに対する能動的な介入の「度合い」の違いにすぎないと考えられるようになる。作り手も受け手もどちらも、ごっこ遊びに参加するならば自身の身体をかけた能動的介入が必要だが、作り手はより多く積極的に能動的であり、受け手はより少なく消極的に能動的である。しかし、受け手であっても、ほとんど作り手と変わらないくらいの能動性でごっこ遊びに介入することも可能だろう。

たとえば、作り手は、ごっこ遊びの小道具とその用途を、未だ小道具とはなっていないこの世界にある様々なものの中から新に発見するが、受け手は、人形やミニカーなど、既にある程度用途が決まっており、用途の創造の自由度があまり高くない小道具を使ってごっこ遊びをする。比較的創造性の高い受け手ならば、ブロックや積み木など、既にあるとしても、用途の創造性の自由度が高い小道具を使うかもしれない。しかしいずれにしても、ごっこ遊びをするには身体をかけた能動的介入が必要であり、そこにあるのは本性の差異(不連続)ではなく、度合いの違い(連続)にすぎない。

ならば、本来フィクションには作り手と受け手との区別はなく、ただ、フィクションの立ち上がりがあるだけなのだ、と言えるかもしれない。

また、ウォルトンの「フィクション=ごっこ遊び」論ならば、音楽まで含めてフィクションとして考えることができるのではないか。