2021-03-15

●『海辺の映画館―キネマの玉手箱』(大林宣彦)をU-NEXTで観た。最初の一時間くらいは、緩いし、ほんとにぐちゃぐちゃだなあと感じていたが、中盤に入ると急速に、反復強迫的な強度が高まって、逆に息苦しいくらいに求心的な感じすらしてくる。

この作品では、俳優の同一性が役柄の同一性を保証せず、つまり、一人の俳優が場面によって違う役として何度も登場する。傍観者として様々な時代(というか、様々な映画)を渡り歩く観客の側の登場人物が時代(映画)に合わせて役を変えるというだけでなく、各時代や場所の内部(各映画の内部)にいるはずの人々もまた、複数の時代(映画)を貫いて一人で様々な役をする。

(観客の側にいる三人の男性に、マリオ・バーヴァ、トリュフォードン・シーゲルという映画監督由来の役名がついているのが面白い。が、ここではあくまで監督の名をもつのは男性で、映画内部にいて様々に役を変えるのは主に女性---吉田玲、成海璃子山崎紘菜常盤貴子中江有里---だという点は指摘できる。笹野高史のような例外はいるが。)

(大林宣彦も、ジョン・フォードに似た男、ピアノを弾く老人、と二役で出ているが、ジョン・フォードに似た男は若い頃の大林の姿であり、過去に撮った映像を転用しているという点で、複数の役を演じている他の俳優たちとは異なる。)

つまり、観客あるいは監督(男)も、俳優(主に女)も、複数の時代(映画)を貫く存在であることになる。このことが意味するのは、この映画の地がリアリズムではないということだ。この映画の時間と空間は、はじめから見立てとして立ち上げられた時空であって、現実の時空を切り取ってモンタージュした「実写映画」の時空でもなく、虚構としての細部が精巧に作り込まれた世界でもなく、演劇のそれに近いと言える。だから、背景もCGも衣装も、いわゆる「現実らしさ」の精度は必要ではなく、ハリボテ的でかまわない。おそらく年齢制限を避けるためだと思われるが、裸の女性が出てくる場面では胸と股間がツルッと加工されていて気持ち悪いのだが、そういう細かいこともどうでもよい。切り株を熊と見立て、木の枝を銃と見立てるようなごっこ遊びの時空におけるリアリティは、切り株や木の枝が本物の熊や銃にどれだけ似ているかにはあまり関係がない。

この作品のリアリティを支えるのは、時代を変え場所を変え配役を変えながら、何度も何度も見立て直され演じ直される、その反復を促すオブセッショナルな力だろう。それはもはや歴史的な出来事としての個別の戦争を描く意思というより、ある状況下において発動され、繰り返されてしまう理不尽な暴力への怒りであり、そのような状況や権力関係に対する疑問や抵抗を不可能にしてしまう無知や情報統制への怒りであるように見える。暴力が繰り返されてしまうという事実が、そのような事実への怒りが、反復強迫的に繰り返し語り直されている。

戦争にかんする多くの情報が詰め込まれることで、お勉強とお説教という感じもあった『この空の花 -長岡花火物語』などと比べて、この作品では、描かれる個々の歴史的な出来事についての知識を伝えようという感じがほとんどない。この作品を観ることで得られる歴史的な事実にかんする知識はとても少ない。

暴力は繰り返されるが、暴力への怒りもまた繰り返され、暴力への怒りは、それを力として語り、語り直される「ごっこ遊び」の時空を媒介として消えることなく反復される。この作品がしているのは、そういうことではないか。

●あと、技術・支持体のレベルでは、デジタル技術がなければとうてい作れないような作品なのに、説話的なレベルでは、映画館、フィルムといったノスタルジックなメディアによって物語が統合されているというギャップが面白いと思った。ノスタルジックに映画を語るこの作品に、まるでスマホのスワイプのような場面転換が多用されている、とか。