●『転校生 さよなら あなた』(大林宣彦)をU-NEXTで観た。82年の『転校生』のセルフリメイクとして、82年当時だったらギリギリ「あり」だったかもしれないが(いや、それもあやしいけど)、今(2007年)あらためてそれをやるのは空疎な茶番でしかないのではないかという場面までもしれっと再現してあったりして、でもまあ、この時間を超えた反復もこれはこれで面白いのじゃなかいなどと思って観ていたら、後半の展開がまったくの想定外で動揺した。こんなところへ連れて行かれるとは思ってなかったのですっかりうろたえてしまった。
いや、想定外というのは「ぼくの想定」が甘かったということで、2007年のこの作品以降の大林作品の展開を考えると、むしろこっちの方へ向かっていくのが当然(必然)だと言える。というか、この作品は『この空の花』から『花筐/HANAGATAMI』という三作へと向かう転換点として、後期大林の最重要作品のひとつとも言えるのではないか。
これはすごく異様な物語だ。他人の死を、このわたしが、このわたしとして死んでいくという理不尽を、受け入れる、という話だからだ。思春期の少女と少年の心と体が入れ替わる。あからさまにエロティックな主題であり、それは物語的にそうだというだけでなく、たとえば、少年の心が宿っている少女という役を、実際に少女である俳優が演じること---その、いかにも不自然な「やらされている感」---によって、少女の身体がその自然なありようから切り離されて対象化され、人形的な表情が生じ、しかしそれによってむしろ「生きているモノ」としての少女の身体の生々しさが強調される。しかしこの映画は、そのような方向に行きかけるが行ききらない。
少女と少年の心と体が入れ替わる。これだけで理不尽な話だが、この理不尽さはエロティックな---生を鼓舞する---状態を惹起する方向だ。しかしそれだけではなく、その上に少女は不治の病にみまわれる。十代の少女にいきなり死がつきつけられるということもまた理不尽であるが、これだけでは通俗的ドラマに堕しかねない。だがさらに、この少女は、実は入れ替えられた少年なのだ。つまり、死ぬのは少年だ。この病はもともと少女の体をむしばんでいたものであり、この死は少女の死であり、少女という場における出来事であった。少年は、本来他人のともに訪れるはずだった死を、自分のものとして引き受けることを強いられる。これは、少年が少女の体として生理を経験するということとは、かなり違うことだ。
「このわたし」として他人の死を死ぬ。他人の死と「このわたしの死」とが交換されてしまうのだ。少年は、少女の死を、「このわたしの死」として、しずかに受け入れる。そして少女は、死んでいく自分を外側から眺めつつ、自分の死後も「このわたし(少年)」として生きることを受け入れる。しかも、少年の「このわたし」が、少女の体とともに死んでしまうのだということを知る人は---少年、少女自身を含んだ二組のカップル以外---いない。
(物語の最後で、理不尽な交換は解かれて、少年は生き残り、少女は少女として死んでいくのだが---そして、それによって少女=永遠という幻想が強化されもするのだが---それはこの物語の最も重要な部分ではない。ただ、少年は、このわたしの死を他者の死として経験した、死後を生きる者へと変化したとは言える。)
少年は、少女を救うために、自己犠牲として、自らの意思で命を差し出すというわけではなく、少女の身体という場に巣くっていた死(病)が、たまたま自分のところに回ってきてしまっただけだ。そこには意思も意味も根拠もない。つまりここには「物語」の入り込む余地がない。それは理不尽なガラガラポンによって引き当てられてしまった純粋な確率的貧乏くじだ。そしてこの理不尽を、少年は(そして少女も)本当に静かに受け入れる。この「静かに受け入れる」ことにこの映画のリアリティは賭けられているとも言える。この映画は、「このわたし」の死が、他人の死と交換可能であり、「このわたし」の死が他人の死の代理(犠牲ですらない、偶然的代理)としてあり得ることを示している。
「このわたし」の死を、他者の死のたんなる(特に意味も物語もない)代理として受け入れる(肯定する)。これが成り立ってはじめて、あらゆる人の生は、別の誰かの生の代理であり、あらゆる出来事は、別の出来事の代理であって、故にすべての生は、すべての出来事はつながっていて、互いに違いを反映し、表現し合っているという、これ以降の大林作品の根底にあるものに、リアリティの支えが与えられる。これがなければ、そんなのたんなる絵空事だと言えてしまうかもしれないのだが。