2023/09/16

⚫︎『花に嵐』(岩切一空)をU-NEXTで観た。今時、(批判的視点などを挟んだりすることもなく)「男の子の妄想」という単一視点だけで突っ切っているところが清々しい。モキュメンタリーとJホラー的な幽霊という既に「手垢のついた」ともいえる手法を、「男の子の妄想」を軸にして再編成することで再活性化するという感じ。そしてこの妄想にはおそらく次の二つの成分がある。(1)孤独な少女との特権的な出会い(彼女を救うという「なけなしの」能動性)。(2)大勢の匿名的な女性たちからいたぶられる喜び。

物語的には(1)の要素がメインだが、この作品を根底で支える動機(欲望)としては(2)が主なものだろう。そして、(2)において重要なのは、この映画が自作自演であり、その妄想の中に「自分自身の身体」が組み込まれている必要があるという点だと思われる。例えば、大林宣彦の『HOUSE ハウス』もまた、大林自身の性的なファンタスムの形象化だと言えるが、そこには大林自身は含まれない。それはあくまで「女の子たち」だけの世界として形作られる。しかしこの映画では、ファンタスムの中に必須のものとして「自分の身体」がある。

それも、分身的な俳優、例えばトリュフォーにおけるジャン・ピエール・レオーのような存在、ではダメで、「そこ」に自分自身がいなければならない。

(1)の、孤独な少女との特権的な出会いという要素においては、必ずしもそこに「自分の身体」がある必要はないかもしれないが(分身的な俳優で代替可能)、(2)の、大勢の匿名的な女性からいたぶられる喜びという要素においては、そこで「いたぶられている」のが他ならぬ自分の身体である必要がある。「このわたし」がいたぶられているのでなければならない。この作品の特異性はそこにこそあるように思われる。

(男の子の妄想に奉仕するありふれた作品は、通常(1)の要素を強調するし、この作品もまた、一見、「ダメなぼく」が、それでも頑張って彼女を救う話であるかのように偽装されつつ、そうではない。実際、(1)の要素にしても、幽霊に一方的に目をつけられ、引き摺り回され、無理強いされている。「わたし」が幽霊を救うのではなく、幽霊が、自らを救うために「わたし」を利用した、のだ。だからここにあるのも、女性から無理やり引き摺り回される喜び、だ。)

分解して考えれば、既にどこかで見たことがあるような要素を「組み立て直す」ことでできているように思われるこの作品で、最も独創的というか、特異的であるのは「古谷先輩のハーレム」の場面だろう。そしてこの「古谷先輩のハーレム」の反転的形象として、ハーレムの女性たちからいたぶられる「わたし」がある。物語的な必然性からすれば、古谷先輩がハーレムを形成している必要は特にない。しかしこの作品は、この場面を存在させるためにあると言ってもいいくらいだと思う。

古谷先輩のハーレムに忍び込み、図らずも盗撮するようなことになってしまい(しかしこの映画の在り方ががそもそも盗撮のようなものなのだが)、ハーレムの女性たちから責め立てられ、蔑みの視線で見られる「わたし」。ここで「わたし」を身体的に痛めつけるのは古谷先輩だが、古谷先輩に一方的にいたぶられる「わたし」に蔑みの視線を送る大勢の女性たちのその様や視線を「撮影する」ことが、この場面では最も重要なことであるように思う。

「このわたし」を蔑みの目で見る女性たちを撮影し、そのような女性たちと共に(そのような女性たちのグループの中に)「わたし」が存在すること。この映画を支える妄想(欲望)はそこにあり、その意味で、主役(わたしの欲望の対象)は「花」ではなく(「わたし」に「脂くん」という名を強要する)「ありさ」であろう。

(映画の終盤に、「妄想の主体=わたし」の座を揺るがす、もう一人の競合する作者=撮影者として「まい」が浮上する。しかしこの「もう一人の撮影者」は、物語を語る都合上の存在、つまり、「わたし」の存在しない場面を映画に登場させるための方便としてあり、「わたし」の座を真に脅かすような「もう一人の作者」ではないだろう。)

追記。花が脚本を書いたという映画内映画では、花が演じる主人公が女性たちからひどくいじめられたため、人格が分裂してしまって殺人者人格が生まれ、殺人者人格がいじめた女性たちを次々と殺していくという悲劇だが(花の脚本が、映研における彼女の立場を表現しているわけではないとはいえ、このフィクション内フィクションはほぼ「花」という人物像に重ねられている)、ほとんど同様の状況にいるともいえる「わたし」にとって、それはシリアスな状況ではなくむしろ「喜び」であって欲望の対象でさえある。つまり、同様な状況における価値の逆転がある。とはいえ、ここで「わたし」は、サークルの女性たちから軽んじられ、蔑まれてはいるが、ひどくいじめられているというほどではなく、深刻さの度合いが違う。というか、「花」という存在はJホラーの紋切り型であり、リアリティがあるのは「わたし」の方であろう。

いじめられた者(支配された側)が幽霊となるという表象、フィクションは、いじめられた側の恨みや怒りに起因するというよりも、いじめた者(支配した側)による、不安や後悔や罪の意識ややましさに起因する度合いが強いように思われる。だから通常、観客は幽霊に殺される側に感情移入して恐怖するし、この映画の「わたし」は幽霊の側に立ち、幽霊と共にあるのだろう。