2020-08-31

●欠落していたゼロ年代大林宣彦の穴を埋めていく作業をぽつぽつとしている。『なごり雪』(2002年)と『22才の別れ Lycoris 葉見ず花見ず物語』(2007年)を観た。どちらも、伊勢正三の曲を原案とした映画で、大分で撮影されたという点で共通している(「大分三部作」として構想されだが、この二作しかつくられなかったということのようだ)。どちらも、中年になった男性の視点から、若い頃の「恋愛にまで至らず---結ばれずに---に失われてしまった関係」がノスタルジーと共に呼び出され、その過去が現在に回帰してくるという話だ(過去の回帰が男性の「困難な現在」を救う)。両方とも、相手の女性は死に瀕しているか既に死んでいるかで、現在の姿としては不在で、ただ回想(および幽霊)として、若い時の姿があらわれるのみだ(そして、その女性の現在における分身として娘が登場する)。こう書くと、あまりに中年男性に都合良すぎる設定だろ、と突っ込みたくもなるのだが…。様々な点で似ているとも言えるが、鏡像反転のように逆を向いている言った方がよいか。その違いは、『なごり雪』は『理由』以前の作品だが、『22才の別れ』は『理由』以降の作品だ、ということでもあろう。

(ゼロ年代以降の大林は、『なごり雪』(2002年)、『理由』(2004年)、『 転校生 -さよなら あなた-』(2007年)、『22才の別れ』(2007年)、『その日のまえに』(2008年)ときて、『この空の花 -長岡花火物語』(2012年)に至る、という流れ。その前の、『淀川長治物語・神戸篇 サイナラ』(2000年)、『告別』(2001年)は、まだ観られていない。)

●どちらも、リアルタイムで観ていたらあまり印象に残らなかったかもしれない。『なごり雪』は、いかにも大林、いつもの大林という以上でも以下でもないという感じで特に新鮮さはなく、『22才の別れ』については、ノスタルジーの形式にオヤジの身勝手さを感じてしまうことと、世代論や世代間格差(貧困)の問題を雑にからめてくる感じにあまり良い印象をもてずに反発していたかもしれない。だが、この二作を、その中間に『理由』を置いて対比的にみることで興味深く思えてくる。

●『22才の別れ』は、とにかく(『理由』以降の作品の特徴であるような)変なことをこれでもかというくらい沢山やっていでガチャガチャしているのだが、その多数のギミックに埋もれてしまうことなく、映画に登場するいくつかの土地のもつ雰囲気やその違いがすごく上手くあらわれている。実際にこの映画の舞台となった土地に行ったわけではないから、それが正確に表現されたものなのかどうかはわからないが、とにかく「ある特定の土地のもつ雰囲気」がとても濃厚に表現されている。土地の感じ、地形の感じを鋭敏に捉え、それをカメラで拾っていく的確さは素直にすごいと思った。メランコリックな感情を歌い上げるために、しっとりとした調子に落ち着いている---まだ壊れていない大林作品---『なごり雪』よりもむしろ、ガチやガチャした壊れかけの『22才の別れ』の方が土地の空気感を生々しくあらわしているようにみえるのが面白い。

●どちらの作品にも、過去における関係の「ボタンの掛け違え」があり、その「ボタンの掛け違えの結果」として、結ばれることのなかった女性の「娘」が登場して、男性と会う。もし、過去に男性と女性が結ばれていたとしたら、今ここにいる「この娘」は存在しなかった。だからこの「娘」の存在こそが「ボタンの掛け違え」の取り返しのつかなさを(男性に対して)表現している。だが同時に、女性の分身として娘と出会うことで、男性にとっては過去の女性との関係のやり直しが果たされることにもなる。まず、女性の分身(過去の回帰)としての「娘」に会うことで、過去の後悔をやり直す機会が与えられ、後に、その娘自身の存在、「この娘」の固有性(現在)を認めることで、取り返しの付かない過去を肯定し、後悔を切断することができる(この説明はやや『22才の別れ』の方に偏っていて、『なごり雪』はちょっと重点が違うのだが、基本的な構図は同じと言っていいと思う)。

なごり雪』において「ボタンの掛け違え」は、まず女性(須藤温子)とその祖母との関係に起源があり、その反復のようにして主人公たちに引き継がれる。祖母は、最初に結婚した夫が戦死したことで、その弟と再婚して、女性の父を産んだとされる。もし戦争がなくて、本当に好きだった最初の夫との結婚が続いていたら、「このわたし」は生まれなかった(それは「このわたし」ではなく「別のわたし」だ)。自分の存在そのものが、戦争によるボタンの掛け違えの結果であり、戦争があったことの結果でもある、という思いが女性にはある。

同様の関係が、『なごり雪』では、三浦友和(細山田隆人)、ベンガル(反田孝幸)、長澤まさみの間に、『22才の別れ』では、筧利夫(寺尾由布樹)、村田雄浩、鈴木聖奈の間に反復的に見いだされる。『なごり雪』の長澤まさみは、決して自分の父ではあり得なかった(もし父だとしたら自分は存在しなかった)反実仮想的父として三浦友和と対面し、『22才の別れ』の鈴木聖奈は、筧利夫と対面する。三浦友和筧利夫もまた、反実仮想的娘として、長澤まさみ、鈴木聖奈と出会う。ただ、作品のもつ重点としては、娘における反実仮想的父との出会いよりも、父における反実仮想的娘との出会いの方に強くかかっている(『22才の別れ』では必ずしもそうとは言い切れないが)。父にとって反実仮想的娘は同時に、ボタンを掛け違え、出会い損なった過去の女性(須藤温子、中村美玲)の分身であり、その回帰であるから。

(筧利夫は映画の冒頭に医者から「精子をつくれない病気だ」と宣言されるので---この病気が若い頃からのものなのかは分からないが---よりつよく反実仮想的父だと言える。)

(娘にとっての反実仮想的父との出会いは、現実の父---ベンガル、村田雄浩---との関係=自分の人生の時間を、ある程度相対化し、フィクション化することで、改めて見つめ直す過程を可能にする。)

ただ、この二作で問題だと思うのは、反実仮想的父や反実仮想的娘を可能にする、分岐点としての母/非母である女性(須藤温子、中村美玲)の存在を、現時点(現在)において抹殺してしまっているという点ではないか。この二作を一対のディブティックと考えるならば、どちらか一作には女性の現在があるべきなのではないかと考えられる。とはいえ、大林宣彦的原理からいえば、女性が現時点においては不在であること(それが過去であり、幽霊であること)が必須なのかもしれない。

●『なごり雪』と『22才の別れ』がディブティック的であることの一例。『なごり雪』が電車の映画だとすると、『22才の別れ』は自動車の映画だと言えるだろう。『なごり雪』の細山田隆人(三浦友和)は、臼杵駅から東京へ何度も電車で旅立ち、東京から臼杵駅へ何度も電車で帰省する。繰り返しあらわれる駅(いかにも寂れた田舎の駅であるような臼杵駅)の場面はとても重要だ。対して『22才の別れ』の登場人物たちは電車には乗らず、もっぱら自動車(そのほとんどが高級車)で移動する。

しかし、登場人物が電車に乗らない『22才の別れ』では、まったく異なるやりかたで電車が頻繁に画面にあらわれる。第一に、筧利夫鉄道模型のマニアであり、彼が住む高級マンションの部屋では常にミニチュアの電車が線路の上をはしっている。第二に、過剰なくらいに頻繁に、フレーム内を電車が通過する。『22才の別れ』の物語に電車はほとんど関係ないにもかかわらず、登場人物たちが演技するその背景を、やたらと電車が通り過ぎていくのだ。それはあざといくらいの頻度だと言っていいだろう。そのもっともあざとい例として、少年時代の筧利夫寺尾由布樹の住む部屋は、その窓のすぐ外が駅のホームなのだった(あからさまなはめ込み合成)。

22才の別れ』で物語に関係のない電車が頻出するのに対して、電車の映画であるはずの『なごり雪』では、電車はほぼ臼杵駅に縛られているかのようだ。電車は、臼杵駅にあるか、山中を走るだけであり、町中で電車がフレームを横切ることはない(町中からは電車が排除されている)。