2020-09-01

●『ねらわれた学園』(大林宣彦)を観た(U-NEXTで)。81年の公開当時、この映画が大好きだったのだが、今回は途中でかなり退屈しててしまった(大林宣彦とは合わなかったのか、薬師丸ひろ子の扱いが---小林聡美原田知世とくらべて---ちょっとぞんざいではないかかと感じてしまった)。中学時代の自分がこの映画を好きだったのは、大林映画でも特に濃厚に素人っぽいノリが前面にでていて、そこに解放感をみていたからだと思う。

たとえば他の(商業映画の)初期作品、『HOUSE』や『金田一耕助の冒険』も、素人ノリともいえる遊戯性に溢れているのだけど、これらの作品にはギュッと詰まった凝縮性がある。一方、『ねらわれた学園』は、それらの作品と比べて遊戯性は薄いように感じられる。やりたい放題やっているというより、ある程度ちゃんと物語を語らないといけないという感じで(とはいえ、物語を語ろうとする意識もそれほどちゃんとはしていなくて)、中途半端で、ゆるい感じになっている。でも、そのゆるい、スカスカな感じが、詰め込み放題に詰め込んでいる『HOUSE』や『金田一耕助の冒険』よりも隙間があっていいように感じていたのだと思う。

それと、『ねらわれた学園』には、当時の大林宣彦の人脈や趣味を感じさせる、プロの俳優ではない関係者のような人(素人)が沢山出演している。原作者(眉村卓)や監督自身やプロデューサー(角川春樹)だけでなく、監督の娘の大林千茱萸、当時自主映画の監督であり女優でもあった三留まゆみ映画作家で監督の仲間でもある高林陽一、映画監督の小谷承靖藤田敏八、映画評論家の松田政男、そして現在はヴィジュアリストと名乗っている(当時、新進の自主映画作家であった)手塚眞には、チョイ役とは言えないかなり重要な役が与えられている。つまり、仲間内の内輪ノリの気配が濃厚にある。

邦画としては大メジャーであるはずの、薬師丸ひろ子主演の角川映画を、悪ふざけのようにして内輪ノリで塗りつぶす。当時、この映画から感じた解放感の多くはここから来ていたように思う。そしてこの感じは、この映画に限らず、八十年代初頭に新鮮に思えた多くの作品(文化的産物)に共通したものだと思う。この時期、内輪ノリこそが革命的であるように感じられた。ただ、内輪ノリこそが革命的だと感じられた時代はそう長くはつづかない。当然だが、内輪ノリとは実は癒着であり、最悪の権力構造を生むことがある。

(このような内輪ノリと、同じ俳優やスタッフと長く仕事をつづけることとでは、微妙だが大きく違うように思う。)

八十年代に十代だったぼくの体感では、八十年代は前半と後半とではまったく異なる世界であったように思われる。八十四年までのバブル前夜に希望として感じられたものが、八十五年以降のバブル期になると、次々と失望へと反転してあらわれるようになった感じ。