2019-03-20

●『その日のまえに』(大林宣彦)をHuluで観た。この映画を、公開された2008年に観ていたら、受け入れられなかったかもしれないと思う。でも、『この空の花』以降の大林宣彦を観た上で遡行して観ると、その見方はかなり変わる。『この空の花』以降の三作はそれくらい強烈なのだが、それと同時に、『その日のまえに』の時点で既にここまでやっていたのだなとも思う。ただ、それはあくまで事後的な視点によって明らかになるのであって、いきなりこれを観ても、これが『この空の花』以降の作品のようなものに発展していくとは思えなかっただろう。

その日のまえに』では、難病を患い死を避けられない永作博美と、その周囲の人物(夫の南原清隆と二人の息子)たちの話が主軸となる。避けられない死へと向かって時間が目減りしていく物語だと言える。しかしこの映画では、最初からあまりに死の気配が濃厚であり、過去と現在、生者と死者が混在している。つまり、死に向かって一方方向に流れていく時間の感覚が希薄だ。現在のなかに過去が混在しているのなら、失われた物も死者も、未だそこにあり続けることになる。永作博美は、時間が頻繁に前後し、死者が何度も回帰してくるような時空のなかにして、そのような時空において死に向かっていく。さらに、永作博美の死は、若くして死んでいった別の人物たちの死と重ねられていく。だから物語は、かけがえのない人物が、その唯一の死を死んでいく、その直前に発生する特別な生の時間---その固有性---を描くという形にはなりにくい。

(『野のなななのか』は、ある老人が亡くなってから四十九日までの話であり、『その日のまえに』は、若くして亡くなっていく女性の死までの話であり、「既に」の物語と「未だ」の物語であるから、この二つは時間のありようとして違っているはずなのだが、過去と現在と、死者と生者とが同等の強さであらわれてくる映画の構造においては、この二つの根本的な違いがなくなっているように思われる。「既に」の物語と「未だ」の物語とが同様の構造で語られることによってその差異が小さくなり、そのことによってわれわれが普段リアルだと感じているリニアな時間構造---その感覚---が解体されていく、というのか。)

(『その日のまえに』のラストちかくで、死んだはずの永作博美が、家で仕事をしている南原清隆の元に、まるでなにごともなかったかのように「ただいま」と言って帰ってくる場面がある。この場面は、非現実的で、甘く幸福な場面であるかのようで、幸福であると同時に、実はシビアに「残酷な」場面であるように思われる。おそらく南原清隆は、自身が死ぬまで、繰り返し何度も、否応もなく、この場面をきわめてリアルに経験することになるだろう。それは避けられないことだと思われる。それは、現実と同じように制御不能で「向こう」からやってくるものだろう。これこそが夢---あるいはフィクション---のリアリティではないか。)

2008年につくられた映画を、現在観るということから生じるなんとも言えない感覚もある。この映画には、不治の病で亡くなった幼なじみの筧利夫のお弔いとして、地元の商店街で花火大会を企画する人物として今井雅之が出ている。しかし、2019年にこの映画を観ているぼくは、今井雅之の方こそが不治の病で亡くなっていることを知っている(映画には、そんなことがあるとは思えないくらい健康そうな姿で映っている)。映画の中で病気で亡くなるのは筧利夫だが、実際に亡くなったのは今井雅之である。映画と現実とで、死者と生者とが反転してしまっている。図らずも、この事実がこの映画のリアリティ---過去も現在も、死者も生者も並立していて、交換可能であるような---を支える構造を強化していることになる。

監督の大林宣彦は、この映画をつくった後、2010年に心臓にかんする大病を患い、そして、わたしたちは2013年に3・11を経験する。さらに、大林は2016年、『花筐/HANAGATAMI』の撮影開始時にガンで余命三ヶ月と診断される(しかし大林はその後も生き続けていて、『花筐/HANAGATAMI』を完成させ、さらに新作もつくっている)。これらの出来事は、2008年に『その日のまえに』がつくられている時点では「未だ」起こっていないことがらであり、予想もつかなかったことであるはずだ。しかし、あたかも、その後の出来事が『その日のまえに』という作品になんらかの形で遡行的に影響を与えてしまっているかのように、現在、この映画を観ているぼくにはどうしても感じられてしまう。『その日のまえに』は、そのような映画だった。