2020-07-16

●U-NEXTで『ノンフィクションW 大林宣彦&恭子の成城物語 [完全版]~夫婦で歩んだ60年の映画作り~』というのを観た。最後の映画になった『海辺の映画館―キネマの玉手箱』の撮影中の姿と、その一本前の『花筐/HANAGATAMI』の撮影中の姿と、両方示されるのだけど、ガン宣告直後の『花筐/HANAGATAMI』の時はまだわりとふっくらしてい元気そうだが、『海辺の映画館』になるとすっかり痩せ細って小さくなっている。それでも、車椅子に座ったまま演出するのではなく、立ち上がって、しっかりと演出していて、すごいなと思った(真っ赤な、『HOUSE』のTシャツを着ていた)。

作中に、「1959年 10月のある日」というラベルのついた、二人がデートしているところをカラー8ミリで撮った映像が出てくる。そこで二十歳くらいの大林宣彦は、すごく鮮やかな緑色の、チェックのジャケットを着ていて(そしてそれは明らかに大林恭子が着ている服と同じ柄で)、こんな服どこで売っているのかと思うようなデザインなのだが、大林恭子がそれを観て、自分が着る服を自分でデテザインして、オーダーして着ていたと言っていて、さすがお金持ちのボンボンだと思った。尾道に行った時、ここが大林の生家だと教えてもらったのだが、勿論、中には入れなかった。その生家の中が少しだけ映ったのだが、やはりすごい立派な家だった。

(あ、でも、「自分でデザインして」の「自分」は、大林宣彦を指すのではなく、大林恭子の方を指すのかもしれない。結婚式の時のウェディングドレスを、大林恭子が自分でデザインして縫製もしたと言っていたし、クレジットはないけど、『HOUSE』などではスタイリストみたいな仕事もした、と言っているし。)

(大林恭子の旧姓が羽生恭子だとこのドキュメンタリーで知った。『EMOTION=伝説の午後 いつか見たドラキュラ』は、脚本が「羽生杏子」になっているけど、これはつまり大林恭子だと考えていいのだろうか。)

大林恭子によると、『EMOTION=伝説の午後 いつか見たドラキュラ』(66年)や『CONFESSION=遥かなるあこがれギロチン恋の旅』(68年)を作っていた頃には、もうコマーシャルの仕事をしていて、経済的に余裕があって、コマーシャルの仕事で得たお金を当然のように映画をつくるのに使っていた、と。金曜の夜にウチにみんなで集まって、土曜の明け方に三、四台の車に分乗して撮影に出かけてつくった、と。コマーシャルでたくさんお金をいただいていて、人並みにはご飯が食べられて、さらに、映画に使えるくらいお金があった、と。

(チャールズ・ブロンソンの「マンダム」とか、カーク・ダグラスの「マキシムコーヒー」とか、リンゴ・スターの「レナウン」とか、そういうコマーシャルをつくっていたのだから、それは当然か。)

で、1977年に『HOUSE』で、商業映画に進出するのだが、当時の東宝の宣伝部にいた人の話では、この映画では監督をスターにする、この映画は監督を売る、映画の売りは監督なのだ、という意図がはじめからあったという。初期の大林の「売れっ子監督ぶり」は、幾分かは映画会社によって作られたものだったわけだ。(おそらく『転校生』によってそれを脱した。そして、大林恭子がプロデューサーとしてはじめてクレジットされたのも『転校生』だ。)