2020-08-17

●今まで、ベストセラーを映画化した原作モノということで、なんとなく観ていなかった『理由』(大林宣彦)を観て驚いた。これこそが、『この空の花 -長岡花火物語』以降の、最晩年の特異な作風のプロトタイプといえる作品ではないか。

原作は読んでいないのだが、おそらく、長大でひどく入り組んだ物語をもつ原作を、そのまま映画化しようとすると上映時間がとんでもなく長くなってしまうし、コンパクトにまとめようとすると、ひどく粗いダイジェスト版みたいになってしまうということから、登場人物がカメラに向かって直接的に事の顛末(つまり「あらすじ」)を語るという、レポート形式を思いついたということではないか。とはいえ、完全にすべてのシーンを「事後的に事の顛末を語る」形式で押し切るのではなく、ところどころに、リアルタイムで進行する事件の現場の場面も混じってくる。それにより、事の顛末を語る時空と、リアルタイムに進行する事件の時空とが、断片的に、そして複雑に交錯するという形になる。

(カメラに向かって直接的に語るという時空と、リアルタイムに物語が起こっている時空との交錯は、それらが交錯している時空、その交錯を可能にしている第三の時空という次元を、つまり時空が混濁しているというありえない時空を要請し、それを創造する。)

この交錯により、リアルタイムに進行する場面において、その場面にリアルな説得力をもたせるというよりも、再現ドラマのような単純化、紋切り型化が起こる。さらに、セリフもまた、レポート部分からの浸食により、リアルタイム部分でも自然な会話ではなく「あからさまな説明口調」になる傾向が強くみられるようになる。本来なら、物語の背後から立ち上がってくるはずの主題(作者の主張)も、登場人物の口から直接的、説明的に語られるという感じになる。もともとの物語が、中心となる人物をもたず、ひとつの殺人事件を軸にして、多数の人物、多数の家族の事情が交錯する話なので(登場人物がやたらと多いというのも、晩年の大林作品の特徴のひとつだ)、様々なエピソードや人物たちが、いっけん脈絡なく(最後には脈絡がつくとはいえ)自由に次々と挿入される。全体的にある種のモザイク的な断片化、平板化が起こる。これらによって、『この空の花』以降の作品を可能にする器(形式)がここで準備されていると思った。

ここまで書いてから、原作の小説について検索して調べてみたら、どうやら原作が既に、レポート形式、インタビュー形式で書かれているようだ。だとすると、晩年の大林作品を可能にする形式は、原作に忠実である(普通にドラマとして映画化せず、あえてレポート形式を採用した)ことによって生まれた、つまり、宮部みゆきの『理由』という小説に媒介されることによって晩年の大林の形式は生まれた、ということになるのだろうか。大林ミーツ宮部によって、晩年の形式が準備された、といっていいのだろうか。

●中心になる人物がいない、と書いたが、最後の最後になって、この物語は加瀬亮のための物語であったことが明かされる。加瀬亮は、最初の「事件」によって亡くなってしまっているから、登場人物が直接、事後的に顛末を語るということが中心にあるこの映画において、自ら語ることはない。ネタバレになるが、「犯人」が何も語らないまま終わる、ということになる。自らは何も語らない、沈黙する者が作品の中心に置かれる(自ら語らない者のために語る)ということも、これ以降の大林の作品にとって重要なことではないか。

●『理由』は2004年につくられた(ぼくはゼロ年代には大林にたいする興味をほぼ失っていたのだが、その時期にこんなすごいことが起こっていたのか、と思う)。そして、やたらとたくさんの登場人物をもつ。そのため、『理由』には、既にこの世にいない俳優がたくさん映っている。既に亡くなった人が登場するだびに、ああ、この人はもういないのだ、この人ももういないのだ、と思う。そして、監督ももういないのだ。