2022/03/30

●『トロピカル・マラディ』(アピチャッポン・ウィーラセタクン)の前半で我々が見ることになるのは、ただひたすら楽しそうにイチャイチャしているゲイのカップルだ。彼らはとても滑らかに仲を深めていき、とても自然に性的な接触をするようになる。二人の、仲良くなれてうれしいという表情ばかりが示される。恋愛にかんする物語にありがちな、逡巡やそれを越える決断、思いこみや嫉妬、行き違いやライバルの出現などといった劇的要素は一切ない(元カレのような存在は出てくるが、それによる摩擦や葛藤はない)。

悲しい要素がないわけではない。飼っていた老犬に癌がみつかって死んでしまう(老犬はいつの間にか画面から消え、男は子犬を抱いている)。しかしその事件は、二人の仲を深めることはあっても、隔たりをつくることはない。だから観客はこの二人に感情移入したり、恋愛の進展にやきもきして応援したい気持ちになったりはしない。人物に肩入れすることなく、滅茶苦茶楽しそうでうらやましいなと思ってニヤニヤするくらいだ。やや距離のあるところから二人を眺める。

我々がこの映画に「見ている」のは、二人の人物の恋愛の顛末ではなくて、「二人の恋愛」を可能にしている条件である、その環境の全体なのだと思われる。我々は、人というより、むしろ環境の方を見ている。それは、この映画に写っている、タイの田舎町を構成する様々なものの総体(光、建物、町並み、軍隊、湿度、人なつっこい中年女性…)であり、具体的には映像と音響によって構築されたものの全体から感じられるものだ。アピチャッポンの映画の新しさはそこにあるのではないか。

(この「環境」は現実に由来する---現実を映している---ものだが、現実そのものという訳ではない、映画として形作られた環境だ。)

たとえば、初期のアンゲロプロスの映画でも、個々の登場人物を見ているというより、カメラの動きを含めた状況全体の推移を見ていると言える。しかしそこでは、確固たる質をもった映画的な時空(空間の生成とその時間的展開)を形作ることか目指されている。しかしアピチャッポンの映画を形作っているのは、時空(時空の展開)というより全体を満たし漂っているような環境だ、というニュアンスが強いだろう。人物でも、物語でも、展開でもなく、環境。環境はそれ自体としては目に見えない、様々な要素の複雑なネットワークなので、絶えず変化はしているものの、わかりやすい(見えやすい)「展開」をもたない。そこにあるのは展開ではなく、あえて名付ければ調子(トーン)やモードの推移と言う方が近い。

(追記。人物も、物語も、政治も、伝承も、比喩も、もちろん存在するが、それらは映画=環境を構成するものの一部であって、それらによって映画が統べられたり、代表されたり、要約されたりしない、ようにみえる。それらは、環境を構成するものたちのなかで、他よりもやや目立つ存在ではあるが、環境(≑オブジェクトレベル)を統べる物語・メッセージ(≑メタレベル)がある、という関係ではないと思われる。)

『トロピカル・マラディ』の「二部構成」は、展開のないところに弁証法をつくりだすためのものではないだろうか。前半の、軽くて開放的な環境から、後半の、濃厚で(闇によって)閉ざされた環境への変化。また、緊張のない融和モードから、緊張みなぎる対決モードへの変化。いずれにしても、我々が見ているのは(というか、見えないまま「感じて」いるのは)、物語でも意味でも比喩でもなく、(図と地で言えば「地」のような)環境なのだと思われる。それは、ひたすら楽しそうなカップルが存在し得る環境(タイの田舎)であり、虎が人になり、人が虎になり得る環境(熱帯の森)として構築されている。

そして、その二つの環境の対置が示すのは(少なくとも、示そうとするのは)、個や死が超克され得ると納得されるような感覚を導く環境なのだろう。