2020-10-04

●U-NEXTで『黒薔薇昇天』(神代辰巳)。久々に観たけどすばらしかった。

いかにもやっつけ仕事のようないい加減な脚本と、奇跡のようにすごいショット(シーン)の数々。緻密に、完璧に作り込まれた、ということとはまったく別種の「すごさ」。映画としての形式の面白さと、それによって捉えられる七十年代中頃の大阪の風景の猥雑さとが、分かちがたく結びついている感じ。

たとえば二度繰り返されるゴンドラの場面。このゴンドラが、おそらくデパートの屋上のようなかなり高い場所にあるのだろうということはなんとなく分かるが、しかしそれ以上は、どんに立地のあるのか分からないような、限定されたフレーミングによる長回しで捉えられる。それによって生まれる、なんとも言えない不安定な宙づり感。

このゴンドラから、谷ナオミが飛び降りようとする仕草をみせ、それを岸田森が押しとどめようとする。この、ある意味サスペンスフルであるアクションが、空間の宙づり性によって、サスペンスというより、性交シーンで体位(上下)を入れ替えているような回転運動に、重力の作用によりさらなる緊張が加わった感じの印象のものとなる。

(この場面は、後にある、この映画のクライマックスと言える二人の性交シーンを予告する、前触れのような役割をもつと考えられる。)

たとえば谷ナオミ岸田森に連れてこられる、川沿いの船着き小屋のような場所。タクシーを降り、階段を昇って防波堤を越え、不安定そうな足場を二人が進んでいくというデコボコした運動と空間の展開を、かなり遠い位置からのカメラが捉えている。進んでいくにつれて、高度が増すと同時に足場の不安定さもまた増していく感じ。そしてたどり着く小屋は、(ゴンドラと同様)まるで宙に浮いているかのような、土台が存在していないかのような空間なのだ。

(この中空の小屋で、岸田森は、カモだと思っていた谷ナオミに恋愛感情を抱いてしまったことを自覚する。つまり、宙づり状態で重力が意識される。)

(岸田森はブルーフィルムの製作者であり、彼が撮るブルーフィルムで男女は---カメラが下に回り込めるようにするため---ビール箱を足場にして宙に浮いた透明の板の上で性交する。ブルーフィルムの製作=ゲイジュツは宙づりである。)

このような宙づり感は、岸田森谷ナオミにブルーフィルムを観せ、なかば強引に性交に及び、そしてそれを撮影させるという一連の場面にもあらわれる。この場面の充実こそが、この映画のクライマックスになっている。

岸田の住むこの部屋は、ガラス加工工場のすぐ上に隣接されたような、奇妙な二階にあるのだが、しかしそれよりも、この場面の宙づり感は、主に部屋が(ブルーフィルムを上映しているので)暗いことによって成立している。部屋の暗さ(+映像の投写)によって三次元空間としての(基底的な)部屋の成り立ちが見えなくなり、ただ、二人の人物の位置関係(とカメラとの関係)によってのみ、空間が生成される。背景から切り離されて宙づりになった二人の人物の、「演技」の有り様や強度こそが、時空をたちあげる。

ここまでずっと、実際の風景と共にあり、映画としての形式と実景との関係によって時空(宙づり感)を形成してきたこの映画だが、この場面では、背景から切り離されることで宙づりにされる二人の人物の関係(と映画としての形式の関係)にフォーカスしていく。この場面の充実した凝集力が、開放的で拡散的なこの映画の核(重力)のようなものになっていると思う。

●この映画ではまず、芹明香が妊娠によってゲイジュツ---という宙づり状態---から離脱する。動物園で芹明香岸田森を横切っていく幼稚園児たちや、谷ナオミと待ち合わせる「心斎橋PARCO」の看板が見える横幅の広い歩道橋のような場所で岸田森に背負われて「けんけんぱ」をしている子供たちは、「ゲイジュツ=宙づり」に対する「重力」のようなものをあらわす役割であろう。だからこそこの映画で「子供たち」は不気味なのだと思う。

そして映画の最後には岸田森さえもが、恋愛感情によってゲイジュツ=宙づりを裏切ってしまう。とはいえそれは「結論」ではない。宙づりのなかで重力が意識され、重力のなかで宙づりが意識されるのが、この作品だと思う。