2020-10-05

●U-NEXTで『夢野久作の少女地獄』(小沼勝)を観た。面白かった。終盤の復讐(を受けての大人=男たち狼狽)の描写が、類型的に感じられややテンションが下がるのだが(とはいえ、そう感じてしまうのは、洗練され過ぎた現代のJホラー表現に慣れてしまっているからかもしれない)、最初の30分くらいがとても面白かった。

二人の「少女」(小川亜佐美、飛鳥裕子)の、メイクや髪型なども含めた顔の作り込みが面白い。顔だけ白浮きしているような不自然なメイクの飛鳥裕子や、いかにも「描きました」というような人工的なソバカスをつけた小川亜佐美など、最初に登場する時に「少女」たちの顔はデフォルメされた仮面のようにある。それは、この作品において「少女」が、ナチュラリズム的な存在ではなく、表現的な存在であることを示しているだろう(体育の授業の時、ブルマーに黒ストッキングだったりする)。それが、場面や進展によって、より素顔に近い顔になったり、より端正に作り込まれたメイクになったりして、かなり大きく変動する。

顔が、仮面のような(広い振れ幅のある)表現性をもつことと対照的に、「(女性の)裸」はナチュラリズム的な生々しさをもつ。しかし、この生々しさは、男性による暴力性によって際立つように表現される。この作品において、女性同士の性交は、間に白い風船のようなオブジェクトを挟んだりして、間接的で遊戯(幻想)的なものとして形象化される(ラストにある二人の少女による直接的な性交場面を除いて)。一方、男女の性交では、ほとんどの場合、男性が一方的に女性をなぶるような形のものとなる(最後の方で、飛鳥裕子が父に見せつけるために自ら乞食坊主を誘い込んでなされる性交を例外として)。この、男性の一方的な攻撃(暴力)性は、女性の体を触る男性の手、という形で表現される。つまり、男女の性交は主に、男性の手が女性の体を触る、という形で表現され、そこで、一方的に触られる体=裸として、ナチュラリズム的な生々しさが発生する。

(おそらく、女性の体=裸のナチュラレズム的な生々しさが、男性の手の暴力性から解き放たれた形であらわれる唯一の瞬間が---この映画を観た多くの人の印象に残るであろう---校長から性交を強いられた後で小川亜佐美が波打ち際に裸で横たわる場面だろう。)

(互いの体を、互いに触れあう、という形で表現される性交は、ラストにある少女同士の性交場面だけだと言える。しかし、この相互的で直接的な性交は、物語の時系列から外れた時間の外で、地球を離れる---自死する---覚悟を決めた二人において、ようやく可能になる。)