●地元のシネコンで『ゼロ・グラビティ』(3D吹き替え版で観た)。これはさすがにすごかった。ぼくは『トランスフォーマー』や『パシフィック・リム』には全然のれないのだけど、『ゼロ・グラビティ』は、たんに視覚的に過剰なだけではなく、空間的に底が抜けているというか、まったく異なる空間経験を造形しているところが違っている。それに、既成のジャンル的ガジェットにほとんど頼っていないし、物語的な要素を出来る限りシンプルにしているから、どうでもいいようなつまらないエピソードに付き合わされることもない(とはいえ、「なにそのアメリカンジョーク」みたいな会話――ジョージ・クルーニーのキャラ――がつまらなくて、そこをもうちょっとなんとかできなかったのかとは思ったけど、それは大したことではない)。
これを「映画」と呼ぶ必要はほとんどないのではないか、というところまでやり切っているのがすごい。これは「映画」ではなく「視聴覚的なアトラクション」だという言い方は今までは「悪口」のように使われていたけと思うけど、この作品はまさにそうであることにこそ積極的な意味があるというところまで行っていると思う。中途半端に「映画」という因習にとらわれていると、面白くもない物語的な構成や、あってもなくてもいいような「面白エピソード」などを配置しないといけないという先入観から抜けられず、結果、見かけはカラフルでゴージャスだけど、食べておいしいとはとても思えないデコレーション・ケーキみたいな感じになってしまう。せっかくVFXがこんなにがんばってるのに、なんでこんなにつまらない話を入れて台無しにするの?、みたいな感じとか。『ゼロ・グラビティ』は、おそらく無重力のリアリズム(?)の徹底によってそこを突き抜けているのだと思う。
とはいえ、そうはいっても特に冒頭の場面などで、ある種の映画的な長回しの場面から感じられる感覚とも通じるものがあったりもするので、「映画」というものの記憶からまったく切れているわけでもないと思う。この作品は、宇宙空間とはいっても、国際宇宙ステーションなどが地球を周回する軌道くらいの、つまり地球からの(距離というより)高度によって測られるような地球圏の宇宙空間というような位置での話で、無重力でありながらも常に地球の方向が意識されているわけで、この作品と「映画」との距離感も、そんな感じなのではないかと思った(「2001年…」みたいに金星まで突き抜けたりはしない)。
この作品の面白いところもその位置の感覚にあって、無重力であり、上下という感覚が徹底して相対化されるような空間経験を造形していつつも、「地球の方向」という方向性が絶対的にあって、空間にまったくとりとめがないわけではない。地球から切り離されているという感覚(無重力の浮遊感)と、しかし地球の存在は常に感じられるところにあるという感覚、離れてはいるけど、離れ切ってはいない感じ。この感じがあるからこそ、最初の方で、サンドラ・ブロックが一人で放り出されたところの恐怖が一層際立つように思った(この作品はやはり、最初の二、三十分くらいが圧倒的にすごいのではないか)。
●あと思ったのは、宇宙服を着ているところではあまり感じなかったのだけど、宇宙服を脱いでから、サンドラ・ブロックが実在する人を撮影したようには見えなくて(つまり実写の映像には見えなくて)、どうしても3DCGでつくった人を動かしているみたいに感じられてしまった。まあ、デジタルカメラで撮影する以上、撮影するということは「カメラを使って三次元情報をスキャンする」ということなのだから、実写とCGの区別は原理的にはできなくて、すべては等しくデータなのだけど、そのことを感覚的に実感できたような感じ。
それは、この作品の映像のテクスチャーの問題だけではなくて、この作品が上下を相対化した無重力空間を徹底して造形していることとも関係があると思う。すべてが等しく情報であるからこそ、上下を相対化した空間と、そのなかでの視点の自由でシームレスな動き(客観ショットから主観ショットへ継ぎ目なく繋がるところが何か所もあった)が実現される(もはや、視点の動きを「カメラの動き」と言うことはできない、物質的なカメラはそのように動いていない、視点の動きは、データと計算によって成立している)。わたしにとっての上が、彼にとっては左や下であるかもしれない。あるいは、今、上の方向あるものが、次の瞬間には下にあるかもしれない。このような事態は、我々のなかにビルドインされている空間処理のアルゴリズムでは処理できず、その組み換えが要請される。それによってあらゆる要素がいったん相対化される。そのなかで、物とデータとの相対性も納得される、という感じ。
上と下の違いを相対化する空間経験(視点)は、情報(CG)と物(実写)との違いを相対化する「計算」によって実現された。このことを感覚的に感知することこそが「無重力」ということなのではないだろうか。そしてこの作品では、完全に無重力の方へと突っ切っているわけではない。人が頭と足とをもつ以上、相対的(主観的)な上下はなくならない。そして、常に地球(戻るべき根拠)が意識される位置で、物語は展開する。無重力と重力、相対化と相対化し切れなさとの間での力の抜き差しこそが、この作品のリアリティではないかと思った。
(追記。だからタイトルは「ゼロ・グラビティ」でも「グラビティ」でもどっちでもいいと思う。)