●人間の身体は、脳の「なか」にあるとも言える。例えば、末端の感覚器官からくる感覚入力を、脳はそのまま受け入れるのではなく、自らが構成したイメージにしたがって「意のままに調整する」ことができる。脳がもつ身体イメージと合致しなければ、(感覚器官からの信号を無視して)体は痛みを感じないこともあるし、逆に、例えば実際には右腕を失った人でも、脳のイメージに従って、存在しない右腕に痛みを感じる(幻肢)こともある。そしてこの、脳内に構築された身体イメージこそが、我々に「自分がこの身体の内部にいる(この身体は自分のものである)」という感覚を与えるという。それはおそらく、「わたしはわたしである」という感覚とも言える。以下、引用は『越境する脳 ブレイン・マシン・インターフェイスの最前線』(ミゲル・ニコレリス)より。
≪メルザックの幻肢説は、古典的な知覚説に対する挑戦だった。彼によれば、身体からの感覚信号を検知することに加え、脳は行動の一つのパターン、すなわち私たちの人生の各地点におけるボディ・イメージ(あるいはボディ・スキーマ[訳注 ボディ・イメージとちがって無意識に抱く、筋骨格系からの情報をもとにした自己の内的イメージ])を規定する「神経基盤」をもつくり出す。この脳内表象は、ペンフィールドが運動野や体性感覚野に見つけたホムンクルスの域を優に超え、私たち一人ひとりに身体構成と境界の感覚を与えるとともに、私たちの自己感覚をも確立する。メルザックによれば、身体やその境界にかかわる脳内イメージはある身体部位を切除したあとも残り、切除された手足の異常ながらも鮮明な感覚が生まれるというのである。≫
●失った手足に痛みを感じるということの逆の現象も起こる。自分の左手が自分のものではなくなる、というようなこと。
≪ニューロマトリックスが部分的に損傷を受けると、身体の一部ないしは全体の所有感覚が失われる。たとえば、脳損傷や腫瘍、卒中によって右頭頂葉に広範囲な損傷が起きると、体側半身無視として知られる複雑な神経障害が起き、患者は体の左半分、そしてたいていの場合、その周辺の環境について無関心になる。≫
存在しない右手を「自分(自分のもの)」だと感じ、存在する左半身を「自分(自分のもの)」ではないと感じる。わたしという感覚、わたしの身体という感覚、わたしというものの境界は「脳のイメージ」のなかにある。すると、次のような出来事も起こる。
≪数年前に、デューク大学のわが研究室を訪れたあるアメリカ宇宙局(NASA)の宇宙飛行士の話をご紹介しよう。彼のはじめての宇宙旅行で最初の軌道周回に入ったとき、スペースシャトルの操縦士が同僚に文句を言い始めた。「私の左の操作盤に手を出さないでくれ!」誰も君の操作盤に触っていないし、その手は君の左手だと指摘されると、彼は肩をそびやかして答えた。「左の操作盤にある手はもちろん私のじゃないからね」。数時間後、乗組員(とヒューストン本部)は胸をなで下ろした。操縦士が突然こう言ったのだ。「みんな、大丈夫だ、どこかに雲隠れしていた私の左手が操作盤の上で見つかった!」≫
●ちょっとブルーハーツの曲を思い出したりもするが(僕の右手を知りませんか…)、これはすごく面白い。どこかに行ってしまっていた自分の左手を、操作盤の上で「発見する!」
(ここからは科学というより芸術の話だが)自分の左手を見失ったり、発見したりできるのであれば、例えば、自分の三本目の腕を発見する、ということもあり得るのではないか。街の雑踏を歩いていて偶然、誰か知らない人の肩から生え出ている、自分の三本目の腕を発見する。あ、俺の腕はあんなところにあったのか、と思って、そのまま通り過ぎる。これを「文学的」に解釈してしまうと、大して面白い話ではなくなってしまう。そうではなくて文字通り、そこに「自分の腕」を発見する。自分の背中にホクロを発見して、あ、こんなところにホクロがあったのかと思うのとまったく同じように、それを「自分の腕」として発見する。
これをもっと推し進めてみれば、腕が三本あって、足が五本あって、頭が二つある「わたしの身体(つまり、わたし)」を構成できはしないだろうか。腕一本と、脚三本と、頭一つは、今、ここにはないが、誰かとともにどこかにあって、時々それと偶然出会って、おお、俺の腕だ、と思い、元気そうでなによりだと思う、とか。勿論、痛みがあったり、運動感があったりして、普段から感覚は「ある」のだ。
ぼくはこういう話にすごくリアリティを感じるし、「世界とわたしの関係」における、非常に重要な何かが、ここにあるように思うのだけど。そして、芸術というのは、このようなリアリティを追究していくこと以外のことではないように思われる。