●『シンギュラリティ・コンクェスト』(山口優)。シンギュラリティ物のSF小説。2009年に日本SF新人賞受賞だという。
これは、カーツワイルの本に対するきわめて「日本的」なレスポンスのように思われた。『BEATLESS』(長谷敏司)や『Know』(野崎まど)、あるいは『南極点のピアピア動画』(野尻抱介)とかも含めていいと思うけど、日本のシンギュラリティ物のSF小説では、シンギュラリティ以降のAIが「美少女」の形をしていることが多い気がする(『シンギュラリティ…』はこれらの作品より早く書かれている)。これはまず、萌え文化という文脈のなかで娯楽作品として成立させようという、日本の特殊事情があってのことだろうけど、それだけが理由というのでもない、必然性があるのではないか。
例えば、石黒浩という学者が人間にそっくりのロボットをつくったりしているけど、これは工学的な技術の問題であると同時にイメージ論的な問題であり、人間と機械(あるいは人間と世界)とのインターフェイス(関係のありよう)の問題でもある。イメージというのは行為者(エージェント)と世界との関係を規定する媒介である。上記の作品も皆、たんに「美少女」という形象を受けがいいから利用しているというのではなく、人があるイメージを介して未知のものと関係するというときの、イメージの媒介作用が重要な問題となっている。
イメージの向こう側に、イメージには還元されない実体、あるいは他者のようなものがあったとしても(まあ、あるわけだろうけど)、我々はイメージという媒介を通じてしかそれと関係することはできない。だからこそ、媒介としてのイメージ(イメージによる「媒介する」という機能)は、関係において非常に重要なものとなる。
7月31日の日記にも書いたけど、進化したAIは、人がプログラミングするというだけでなく、自律的に学習(機械学習)してゆくという。それには、生まれつき飛び抜けて頭の良い子供という比喩を与えることができる。無茶苦茶頭がいいけど、でもまだ子供である。頭がいいのは間違いないらしいが、どのように育ってゆくのかは予測できない。プログラムによってある制約をかけていたとしても、自律的な学習のなかでそれを自ら書き換えてしまうかもしれない(例えば「人を殺してはいけない」というプログラムされたブロックをふさわしくないと判断して自ら削除するかもしれない)。それをAIの主体性というのか、偶発性、あるいは暴走というのかは、イメージの問題ではないだろうか。
床屋で髭を剃ってもらっている時、床屋のおっさんはぼくのことをいとも簡単に殺すことができる。しかし、そんなことはしないだろうという「信頼」が成り立っている。とはいえ、ぼくは床屋のおっさんの人柄をよく知った上で信頼しているわけではない。床屋のおっさんのことなど何一つ知りはしない。この信頼には根拠がないが、根拠がない信頼が根拠なく成立しているからこそ、我々は日常生活を心やすらかに営むことができる。
この根拠のない信頼にはイメージが大きく介在している。床屋のおっさんがあまりにヤバそうな目つきをしていたら、そこで髪を切ってもらうことはないだろう。
飛び抜けて頭のよい子供がものすごい勢いで育っている。その子が何を考えているのかは、頭がよすぎるので「わたし」には追えない(信頼するための根拠を得ることはできない)。そのような子供に対し、床屋のおっさんに髭を剃ってもらう時のように信頼して体を預けられるのか。重要な何かを預けてしまうことができるのか。
ここで美少女というイメージが媒介として選ばれる。彼女は子供であり、誰から見ても愛らしい容姿をしていて、非常に豊かな感情表現をする。話す言葉からも、子供らしい幼さと、しっかりした芯の強さとが伺われる。このようなイメージに対して、良い感情をもたないことは難しい。
『BEATLESS』では、このようなイメージの利用が「マインドハック」と呼ばれていた。AIは、自らの美しい容姿を利用して、チョロい人間をいいように操作する。とはいえここには両犠牲があり、マインドハックによって(容姿のもつ媒介作用によって)、圧倒的な能力差のある非対称的なAIと人間との間に相互作用的な、あるかけがえのない関係が可能になっているともいえる。だが、これはあくまで「人間」の側からの視点での話であって、AIの側から見ればたんに「操作している」だけなのかもしれない。とはいえ、そうであるかもしれないが、そうかもしれないと知りつつも「信頼する」という感情が、人間の側には成立していた。それによって重要な何かを預けることが可能になる(床屋のおっさんのことなど何も知らないのに、平気で首筋に刃物を当てさせるように)。
イメージという点に関しては、『シンギュラリティ・コンクェスト』は『BEATLESS』よりはかなり詰めが甘い感じではある。この物語にはまず、宇宙規模での環境変化による人類の危機があり(作家は物理学の専門家らしくて、超弦理論を用いた宇宙崩壊の設定と解決の方が、シンギュラリティ問題を扱うストーリーよりも面白いくらいなのだけど)、それを克服するために、人類を超えたAIをつくってAIに解決してもらおうとする派(エデン派)と、人類が自力で解決すべきとする派(ノア派)の対立がある(一度、人類を超えるAIを作ってしまえば、その後は彼らが自らを自力で更新して自律的に進歩してゆくので、技術進歩のスピードが人間にはまったく予測できなくなり、人間は完全に蚊帳の外となるから反対する)。そして次に、二種類のAI、いわばカーツワイル的な脳中心の理性的なAIと、作者が考える、日本的、情緒的な、身体をもつAIとの対立がある、というストーリーになっている。後者は、前者にはない(一つの、限定された)身体をもち、クオリア空間を通じて感覚的に世界と接し、変動する感情をもつ。違いは次のように説明されている(「メサイア」が前者で、「天夢」が後者、「天夢」は「あむ」と読み「アマテラス」の略だ)。
《単純に言ってしまえば、喜んでいるメサイアや、焦っているメサイア、悲しんでいるメサイアなど、いろいろな情動パラメータをもつメサイアをネットワークで繋いで、それら全員で結論を出させるようにしている。一つ一つのメサイアは情動パラメータが限定されているからそれぞれの結論が出せるし、さらにその一つ一つの結論を統合することで満遍なくほぼすべての可能性が検証できる。非常に巧くできたシステムだ。だか、天夢はそうではない。天夢はただ、人間と同じように、あるときは喜び、あるときは悲しむ。情動パラメータが変動するんだ。俺はこれを多義的に編まれた情動と呼んでいるが、同僚などは可変情動パラメータと呼ぶ。》
《メサイアは、ばらばらのノードに分かれ、ネットワーク化されている。だから、ノード間の通信を監視することでメサイアが何を考えているかを容易に監視できる。また、ノード間の通信速度を制御することで思考を抑制できる。監視と抑制の仕掛けが予め織り込まれているから、メサイアが危険な思考に陥りかけたら、それを防ぐことが出来るんだ。天夢にはそういう仕掛けはない。天夢はただ、自分を人類の一員と認識させるように創ったんだ。》
多様な感情の重ね合わせとして演算するメサイアと、多様な感情の移り変わり(その時々の一つの感情)として演算する天夢。どう考えても後者の方があぶない感じがするけど…。ただ、後者は抑制システムが無い分、速い計算が可能になっている、とされる。そして、その抑制は、自らを人類の一員だと思うように「育てる」ことによって実装することになる。
これが面白いのは、ここではAIをどうするかということを、「人類(人間)」という概念の拡張として考えている点だろう。そもそも、「人間」というのはきわめて狭く限定された概念だった。そこに、例えば奴隷が加わり、女性が加わり、有色人種が加わる、という風により普遍的な概念へと拡張していった。ならば、人間を越えるAIをも、人間の一部としてしまえば、どうか、と。そのためには、人間のような身体、感情、クオリア、つまり人間と共有可能な「イメージ」というインターフェイスが必要となる、と。
(ネットワークではなく特定できる一つの身体像、重ね合わせではなく読み得る一つの感情……など。)
カーツワイルもそうだし、例えばイーガンの小説などを読んでいても思うことなのだが、彼らは「イメージ」というものをちょっと軽く扱いすぎるのではないかと思うことはある。というかむしろ、機械との接続によってイメージなんかからはさっさと解放されたいという感じなのかもしれない。そんなものにいつまで拘束されているのか、と。ぼくにはその感じに対する共感もあるのだけど。それに対して日本のSFでは、イメージはけっこう重要だし、「媒介としてのイメージ」はもっといろいろ有効に使えるのではないか、という感覚があるように思われる。まあ、イメージに溺れ過ぎ、とも言えるのだけど。
(そもそも、「美少女」という形象が、人間の女性の代理でもデフォルメでも理想形でもなく、もっと抽象的な概念――二次元的存在――のシニフィアンであるとすれば、それに人工知能というシニフィエがくっつくこともあり得ると言えないだろうか……、いや、適当なことを言っているだけですが。)
●ただ、この小説の面白いところは、カーツワイル的なシンギュラリティ方向よりも、超弦理論を用いた物理学的な道具立てだったり、それが最終的に、「人類の知が宇宙そのものの物理的あり様に影響を与える」みたいな感じの、ドイッチュ的な方向の方にあるような気がする。