●『クラウドからAIへ』(小林雅一)、という本を読んだ。最近のAI周辺の事情はだいたいこんな感じ、というのを、ビジネスマン向けにざっくり書いたような、さくさく読める本。
この本によると、AIのアプローチには基本的に三つあるという。(1)論理をベースとしたもの、(2)ベイズ理論をもとにした確率・統計的なアプローチ、(3)動物の脳をモデルとしたニューラル・ネットワーク。普通、AIというと(1)を思い浮かべると思うのだけど、今、爆破的に成果を出ししているのは(2)で、今後、著しい発展が期待されるのが(3)だという。(1)に関しては、八十年代に盛り上がったいわゆる第五世代コンピュータの挫折以降、イマイチ冴えない感じらしい。とはいえ、当初は(1)のアプローチしか可能ではなく、(2)や(3)が可能になったのは、コンピュータの計算能力の増大と、インターネット上に蓄積された(されつづけている)莫大な(果てしなく膨れ上がる)データのおかげであるという。
(1)を主導したミンスキーとかチョムスキーとかに言わせれば、(2)など「知能」と呼べるものではない、ということになる。とはいえ、人間が論理において考えるというのは頭の良い人の陥りがちな誤謬で、人は論理ではなく多くの場合、蓋然性において考えるのではないかと思う(論理的に考えるのは、論理的に考えるトレーニングを受けた人だけ、なのではないか)。この蓋然性は、数学的な確率ではなく、世間の常識と自分の経験の蓄積とから導かれる蓋然性だろう。その意味で、(2)がやっていることはとても人間に近い気がする。世間の常識(蓄積された莫大なデータ)と、それをベースにした自分の経験(最初、ざっくりとした答えを出し、それに対するリアクションをフィードバックして、次第に出力の精度を上げてゆく)、それでだいたいは上手くゆく、と。世界の真理を探究するのではなく、「空気」を精密に読んでゆくという感じか。こう考えると、AIってけっこうつまんないものだなあとも思えてしまう。
(3)は、当初は期待されつつ、「排他的論理和」などの演算が原理的に出来ないと分かったり、その欠点を克服するために計算の階層を深くすると、今度は計算量が増えすぎて実質的には使えなくなってしまったりと、ずっとこれといった成果を出せずにいたのだけど、ここにきて、コンピュータの計算能力の増大とともに、不必要な情報を上手く刈り込んでゆく手法の洗練などもあって成果を出すようになったらしい。有名なのがディープ・ラーニングによる「グーグルの猫」で、ランダムに与えられたYouTubeの映像から、人の顔や猫といった抽象概念を勝手に抽出するようになった、と。
だがこうなると、AIの計算過程や学習過程を人間が後追いして追認することができなくなるという。なぜ、「犬」ではなく「猫」なのか、その理由を後から確認することが出来ないということだろう。ここで計算過程は人間にとってはブラックボックス化する。AIは人間がプログラミングするというより、自分で勝手に育ってゆくのだけど、それがどのように育つのか前もって予測できないし、結果からその原因や過程を探ることも出来なくなる。これはもう、普通に人間の子供と同じような感じではないか。
AIは今、人類が何万年もかかって蓄積してきた知と情報を、がんがん吸収しつつ、急速に育ってゆく「人類の(恐るべき)子供」のようなイメージにみえてくる(例えば、過去の将棋指したちが積み上げてきた膨大な将譜を一気に飲み込んで、ほんの数年うちに人間たちの営みとしての将棋の歴史を追い抜いてゆくAI、というようなイメージ)。年寄りには新しい世代の若者の考えがなかなか理解できないように、人類にはAIの考えが理解できないのだろう。そこで子供が、親孝行な、親を助けてくれる親にとって都合のよい子供になるのか、親を困らせ、悩ませ続ける子供になるのか、それとも、親を殺す子供になるのかは、まだぜんぜんわからないという感じだろうか。
●とはいえ、こんなことはすべて妄想かもしれない。例えば、ムーアの法則も、近いうちに「5ナノの壁」という物理的な限界に突き当たるらしくて、それを越えられるかどうかはまだ全然わからないらしい(これは本に書いてあったことではなく、詳しい人が言っていた)。コンピュータの演算速度も、もしかしたらもうすぐ限界に達してしまうのかもしれない、と。
●『クラウドからAIへ』という本はとてもバランスよく分かり易く、抑制的に書かれているのだけど、最後から二段落目に、本音がポロッと零れているように感じられた。
《今や最先端の科学技術は一般大衆の理解が遠く及ばない世界で展開し、科学者の知的探究心に駆られた研究開発は常に暴走の危険を孕みながら、ごく一部の政治家や官僚だけが、その手綱を握っています。しかし往々にして専門的な知識と真の洞察力を欠き、様々な利権と既得権にまみれた彼らが、本当に正しい決定を下してくれるでしょうか。「むしろ並はずれた知力と中立性を兼ね備えた、AIマシンに判断を仰いだ方がマシではないか」という意見が、悪い冗談では済まなくなってきています。》
これは、AIへの期待と言うよりは人間への絶望のような感情で、AIに興味をもつ人の多くが、このような感情を基底にもっているのではないかという気が、ぼくはしている。AIの支配がユートピアをもたらすという程に楽天的に考えている人はまずいないと思うけど、少なくとも、あまりに愚かな「人間」よりはいくらかマシなのではないか、と、このまま「人間」たちが政治をつづけていったのでは、世界が少しでもマシになるという希望をもつことはできないのではないか、という感情があるように思う。このような感情は危険であり、また、危険であるということが自覚されてもいる(だから、「悪い冗談では済まなくなってきています」という回りくどい表現がなされるのだろう)のだが、それでも、この感情をもたないでいることは難しい。