●昨日の日記に書いたワイアードの記事を読んでいて、カーツワイルのことを思い出した。カーツワイルの言うシンギュラリティとは、人類が生まれてから現在までの間に「地球上で生まれたすべての人」が考えたことのすべてを、1000ドル程度で買える一台のパソコンによって計算することが可能になる、というのが一応の定義で(コンピュータが一人の人間を超えるのではなく、全人類史を超えるという意味)、カーツワイルは2045年にはそれが実現するだろうと言っている。それは、この世にあるパソコンの台数だけ、人類史のシミュレーションが存在することが可能になる、ということにほぼ等しい。パソコンの数だけ「人類史の別の可能性」が展開され得る世界、と。
(正確には、全人類の脳の働きを計算できることと、それを発展させ得るシミュレーション空間――身体を通じて脳と相互作用する物理的空間のシミュレーションも含めたもの――を実現できることとは違うと思われるが、でも、そこまでいくことが可能ならば、それももう一歩ではないか。)
たとえば「将棋」においては、人はもうコンピュータソフトに勝てず、異なるソフト同士が対戦し、その対戦の棋譜を元にして、ソフト自身が自分を進歩させてゆくという状況があり得るとすれば、「将棋」は人を必要とせず、コンピュータによって「将棋界の進化」のシミュレーションが進行しているということになる。人間がその進化に追いつけないとすれば、それはもうシミュレーションではなく、そちらの方が「現実」なのではないか。そして、それが可能ならば、(無数の)「人類史の進化」のシミュレーションがコンピュータによって可能になるという話も、まったく馬鹿げた話とまでは言えなくなるのではないかという気になってくる。その時、人類史にもう「人類」は必要なくなる。
まず、コンピュータにそれまでの「歴史」という膨大なデータを与え、正→反→合という弁証法を自動的に生成させるような弁証法システムを与えてやれば、歴史は自動生成される、のではないか。たとえば、歴史を入力することで生じた人類史シミュレーションシステムaがあるとすると、それが自動的に「反」としてのシステムbを生成し、ディープラーニング的な技術でa、bの対立(対戦)のシミュレーションを何百万回も行うことを通じてメタシステム(合)としてのシステムAが生成され、それが自動的にシステムBを生成し、AとBが対戦して……、まあ、これだと多様性が十分に確保できないだろうから、ネットワークを通じて、時々、自分とは別の自律進化している系とランダムに交錯して、重層的な競合も起こるようにしておく、とか。こういうことが人間には追いきれないほどの速さで展開する、とか。
実際、「囲碁」という、この世界のごく限られた範囲に限定するならば、似たようなことが既に起こっており、それは少なくともリアルな欧州チャンピオンを現実的に破るだけのシステムへと進化している。
●「計算」というのは「現実」なんだなあ、ということを感じる。計算は、記号の形式的(論理的)な操作でしかないのだが、しかし「計算をすること」は確実に現実を変える。計算することだけによって現実が変わることはなく、計算の結果明らかになることは、既に潜在的に世界に存在していたものであるはずだが、それが顕在化することで、その顕在化された認識を用いて現実を変えることができるようになる。あるいは、顕在化された認識は、自ずと現実を変えてしまう。ならば、「計算すること」が現実を変えるといってもいいのではないか。この時、「認識」とは、人間のものである必要はないことになる。
(そういえばドイッチュが、物理的に不可能な体験をする仮想世界は想定できるが、論理的に不可能な体験をする仮想世界――たとえば、181という素数因数分解できる世界――を想定することはできない、と書いていた。)
記号の形式(論理)的な操作と、物質の実際的な操作とが、不可分であるような領域が考えられるのではないか。だがそこは「表象」というものが必要なくなる地点であるようにも思われる。コンピュータの技術的発展は、そのような領域の存在を露わにしているように思われる。
(計算には記号が用いられ、記号にも最低限のイメージはあるが、しかし、記号は計算の助けとして用いられるのであって、記号のもつ「イメージとしての力」が計算に作用することは(おそらく)ない。計算の本質は論理的規則にのっとった形式的変換にあるだろう。ただ、計算という「操作を行う」ためには、ある種の非形象的イメージ――カンやコツのようなもの――は必要かもしれないが。)
(たとえば、AlphaGoという囲碁ソフトが「次の一手」を「計算している」というとき、その「計算」において一体どんなことが行われているかは、ソフトの開発者ですらイメージすることができないだろう。「直感」をもつソフトの推論過程はわからない。)
●だけど、人間の「心的生活」にとっては、イメージや象徴、あるいは物語が必要であろう。おそらく人間の社会においては、イメージや象徴の交換に媒介されることなく物質が交換されることはないのではないか、と。人間は社会のなかでイメージや象徴を交換するように「動いて」生きているのではないか、と。例えば、シビアな数字上のやり取りでしかないようにみえる金融市場も、投資家の不安や期待によって動くのではないか、と。
しかし、「計算」のもつ力の増大は(たとえばビッグデータ解析などがリアルに感じられるようになると)、イメージや象徴、あるいは物語が人を動かしているのではなく、それはたんに後付け的な(自分を納得させるための)正当化でしかなく、実際は表象無き「計算」によって動かされているのではないかという感覚を我々がもつようになると思われる。『マトリックス』のオープニングのようなものこそが「実在」のイメージとして適格なのではないか、と。イメージや象徴に動かされるのではなく、表象無き論理的計算過程に動かされているのだが、動いたことの結果として、イメージや象徴が後から(自己言及的に)貼り付けられる、のではないか、と。
しかし、そうだとしても、我々は我々の「内的(心的)生活」、イメージと象徴と物語の世界から外に出ることは出来ない。この恐ろしい落差からは、おそらくもう逃れられないのではないかと思う。