●以下、与太話。
宇宙には最初は、そして長い間、物理的存在しかなかった。ずいぶん時間が経って、そこに生物が生まれた。生物とは、象徴的な記号を介して物理的世界とやり取りをする存在と言える。つまり、物理に次いで象徴が生まれた。生物(象徴)は進化し、人間が生まれ、人間は論理を発見した。生物である人間は象徴的な存在なので、論理は当初、象徴と混じり合っていた。そして、純粋化された論理的存在としてコンピュータが生まれた。
最初に「物理」があり、次に「象徴」が生まれ、そして「論理」が生まれた。
今後、コンピュータの進化が生物を駆逐し、つまり象徴が消滅し、この宇宙には物理と論理だけがある、という形になるのか。それとも、象徴(生物)もまた独自のあり様として生き残り(あるいは、生物は消滅しても論理が象徴をエミュレートするという形で)、物理、象徴、論理の三つ層としてありつづけるのか。
(この宇宙とはまったく異なる物理法則が支配する別の宇宙を想定することは出来る。だが、この宇宙とは別の論理法則が支配する宇宙――例えば181が素数ではない宇宙――を想定することは出来ない。この時、「想定できない」というのはどういう意味なのか。「存在し得ない」ということなのか、「この宇宙においては想定できない」ということなのか。あるいはたんに「我々には想定できない」に過ぎないのか。)
(象徴と物理の間にあるのが「心身問題」だとすると、同様の問題が論理と物理との間にもあり得る――物理が何故、論理として記述でき、論理によって予測できるのか?――のではないか。)