●そもそも、論理的な知は人間的なものではなかった。論理は、ウイルスのように外側からやってきて人間に寄生し、人間を利用して発展し、いまや宿主を支配するまでに力をつけてしまった。論理は人間にとってどこまでも外部(他者)であるが、しかし、それを切り離そうとすると人間もまた生きていけなくなるくらいには、既にキメラ的に融合してしまっている。
(資本主義は、本来は論理≒テクノロジーであるものを、あたかも象徴≒欲望≒商品であるかのように偽装して、象徴交換の形式に乗っけて広めるための、非常によくできたウイルス拡散装置なのではないか、とか。)
人は通常、論理的、合理的に考えて行動することは少ない。多くの場合、常識と習慣に従って動く。あえて常識に反する行動をすることもまた、常識を前提にすることによって可能になる。未知の事態にぶつかった時でも、その「未知の場」で働いているはずである常識や習慣を探ろうとする。社会的な動物である人間にとって「合理的に考える」ことはあまり合理的なことではない(文化というのはそういうものだろう)。周囲に合わせることの方が合理的(生存できる確率が高くなる)だろう。にもかかわらず、それに耐えられなかった人や、頭の良すぎた人が、合理的に考えてしまった(その気持ちはすごくよく分かる)。そしてそれは時には、結果として集団の利益を増すという方向に働くこともあった。おそらく、そういうことがあったことで、集団はある程度の合理(論理)を許容したのではないか。そして、ふと気づいてみれば、論理が勝ち続けてしまっていた、と(17世紀以降、今日まで)。
論理は、コンピュータをつくったり、核兵器をつくったり、金融システムをつくったりできるが、象徴は、それらに拮抗するほど力のあるものはつくれない(「国家」や「宗教」も、キメラ的に論理≒テクノロジーを内包することによってしか維持できないだろう)。しかしそれでも、人間が生きるのはあくまで象徴的世界であるのだとすれば、今後人間は、まったくの無能で不能な存在として世界を生きることになるのではないか。しかしそれを、人間がようやく不能の世界にまで至ることができたのだ(不能として存在するこができるまでに成熟したのだ)、と言うことも出来る。
(久々に『天空の城ラピュタ』を観て、ラストで、ラピュタがすべての人間たちを振り落して空高くどこまでも飛翔してゆく様を見て、論理のみが華々しく発展し、人間は、まるでベケットの『事の次第』みたいに、その足元で、地べたを這いつくばって生きることになるのだろうかと思った。)