●『分析美学基本論文集』に収録されている「フィクションを怖がる」(ケンダル・ウォルトン)を読んでみたのだが、これはとても面白かった。「ホラー映画を怖がる」という時、そこで起こっていることは何なのか、についての分析。恐怖という感覚についてではなくて、「フィクションに恐怖する」という現象を論理的にどう位置付けるのかという話。この論文が面白いのは(貴重なのは)、問題となっているのがあくまで「フィクション一般」であって、メディウム(メディア)や歴史への意識がまったくないところだ。「フィクション」について考えるのであって、映画というメディウムが問題ではないのだ、と。
マノヴィッチの『ニューメディアの言語』では、既存のあらゆるメディアがデジタル情報へと一元化される一方、その一元化のなかでオールドメディアの形式が「慣習」として受け継がれるというようなことが書いてある。ラマールの『アニメ・マシーン』では、「アニメ」を、様々なメディア、テクノロジー、産業、コミュニティ、欲望などが多平面的に重なって生じる結節点として捕らえていた。また、落合陽一の『魔法の世紀』では、今まではコンピュータのディスプレイの向こう側(ネットなど)で起こっていたことが、今後は現実空間の方へと染み出してきて境目がなくなり、現実が魔法化(虚構化)するということが書かれていた。これらの事柄は、現代の、メディウムとテクノロジーとフィクションの関係のありようを考える時に非常に刺激的な示唆を与えてくれる。
メディウムや歴史の具体性をみてゆくことはとても重要なのだが、ただその時、「そもそもフィクションとは何なのか」「人は何故フィクションを必要とするのか」あるいは、「フィクションなど実は大して必要ではないのではないか」というベタな問いを、きらびやかな具体性のなかで見失いがちになる感じもある(「きらびやかな具体性」そのものは楽しいのだけど、それだけでは足りない感じがある、ということ)。
ここでは、広義の「フィクション」を「あるフレームによって現実とはいったん切り離された領域内で起こる出来事」というくらいの感じで考えているのだけど(だから、芸術一般がそこに含まれる、芸術より広い概念として考えている)、そのような意味でのフィクションが、気晴らしや憂さ晴らしや友達作り程度の意味しかもたないのならば(気晴らしや憂さ晴らしや友達作りはそれ自身としてとても重要なことだが、そのためになら他にもっとよい方法があり、別のやり方の方を勧めたい)、エンターテイメントの制作者でない限り、そんなことについて考えるのはさっさとやめて、科学や経済や社会や政治や家族について真剣に考えたほうがいい(アートなど滅んだ方がいい)ということになる。
ぼくは、そうではないと信じて今まで生きてきたのだけど、それは本当なのか。アートなんかについて考えるよりも、SNSのシステムについて考える方がいいのではないか(実際、その方がずっと面白いし)。そうではないと何故言えるのか。仮想世界(可能世界)は何故必要なのか。もちろん、こんなに大きな問いに大上段から挑みかかろうとしてしまうと何もできなくなってしまうのだけど(実際、書くべきテキストがなかなか進んでいないのだけど)、少なくともそこにちょっとでも触れられないのならば、何かをする意味はあまりないように思われる。
今のところぼくが考えているのは、生物にとって「現実」はどのみち象徴的な記号によって構成されているのだから、基本的には皆フィクションであって、でも、共同性や物理的実在との兼ね合いによって、「現実性の度合い」が異なる様々なフィクションがあり得て(例えば、人が生身で空を飛ぶというフィクションは、物理的な縛りによって高い現実性の度合いをもつことは出来ないだろうが、この紙切れには高い価値があるというフィクションには、物理的縛りはないので、共同性さえ得られれば高い現実性を持ち得る、など)、だから、我々は現実性の度合いの異なる複数のフィクションの重なりのなかで生きているのではないか、という感じだ。だとすれば、フィクションとはそのまま、現実性をつくり出し、変化させてゆくための(世界のなかで行為するための)根本的な力であり技法であると思われる。
(動物は割合と単層的な現実=フィクョンを生きていると思われるが、人間は、現実=フィクション……現実≒フィクション……現実≠フィクション……、と、現実性による縛りの度合いの異なる複数の層に跨って生きている、と。)
ただ、我々は既に「象徴」とは異なる「論理」という原理を受け入れており、象徴的な現実とは異なる種類の現実性を、論理によって強いられている。象徴的な現実性とは異なる「論理的現実性」の力が強くなることで、象徴(フィクション)の力や価値は相対的に低下しているという感じは否定できないし、科学と資本主義によってその傾向は今後益々強くなると思われる。普通に売っている技術的製品=商品には既に、量子論的なレベルの論理性が編み込まれている。それは象徴の力では動かせない。
だから、シンギュラリティというのは、論理の力が完全に象徴を屈服させるに至る瞬間を意味するのかもしれない。だけどもし、シンギュラリティ以後にも人間が生きることが可能であるとすれば、人間は所詮生物であり、人間が生きるのは象徴的世界であるしかないのだから、論理的現実が支配する世界の中になけなし象徴性をつくりだしてゆくしかない。
(論理によって人間的なもの――象徴――は消えてしまってもかまわないと考える人もいるだろう。おそらく、論理は象徴をかなりの程度エミュレートできるので、人間的なものが消えた後にも、人間は自分たちの根拠が消えたことにすら気付かずけっこう幸福に生きられるかもしれないのだし。)
論理というのは、人がそれに納得しようがしまいが関係なく、正しかったり間違っていたりするが、象徴は、それがより多くの人に、より深く受け入れられること、あるいは(ある特定の)社会的関係のなかで機能することによって現実性の度合いが増してゆく。以前に、レヴィ=ストロースとクラウスの「クラインの四元群」の使い方に違いについて日記に書いたことがある。
http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20150222
レヴィ=ストロースは、調査を通じて交叉イトコ婚の構造を四元群として論理的に抽出した。クラウスは、現代彫刻のあり様を四元群を使って象徴的に(見立てとして)示した。つまり、数学的構造を象徴的に使用した。交叉イトコ婚の構造は論理として人々の承認とは無関係に真であったり偽であったりするが、クラウスの示す現代彫刻の構造は、それがアート関係の人々に受け容れられ、「アートの社会」で機能することを通じて現実性の度合いを高めてゆく。このように、人は論理と象徴をごっちゃにして使う。
テクノロジーは、商品(象徴)という顔をして我々の前に現われ、それが広がることで、そこに編み込まれた論理によって我々を条件づける。それに対して、フィクションはどう作用するのか、あるいは、何かをし得るのか。現代の技術的条件のなかにあって「仮想(可能)世界は何故必要か」という問題(それは、芸術は何故必要か、というのとほぼ同義だ)は、そういう問題だと思う。