クローズアップ現代が興味深かった。ファイナンスとテクノロジーを掛け合わせてフィンテック。IT業界が銀行の権力を揺るがすのか、と。
http://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail_3766.html
http://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail02_3766_all.html
例えば、面倒でまどろっこしい融資に対する審査を、ビッグデータを用いることで瞬時に判断を下すことができるようになるとか、融資を受けたい人と投資したい人とのマッチングを人工知能がネットを通じて行う、とか。多くの人が、銀行の大きすぎる権力と不合理な慣習に対して理不尽だという感情をもつという観点からは歓迎される事柄だが、一方、人工知能とかビッグデータとかいう訳のわからない、いかがわしい(非人間である)ものに金融システムを委ねてしまうことに対する強い不安や抵抗もあるだろう。IT業界は、支店の設置やATMの管理などのインフラ維持という社会的リスクを負わず、タダ乗りしておいしいところだけをもってゆくことでシステムを崩壊させるのではないか、など。
これを観ていて思い出したのが、ちょっと前に読んだ、ゲイの恋愛のスタイルを大きく変えたというアプリにかんする記事だった。
http://blogos.com/article/158128/
ゲイはマイノリティであり、ゲイであることをオープンにしている人も少ないため、日常生活の範囲では自分以外のゲイと出会うのは困難で、パートナーやゲイの友人を得たい時は、ゲイたちの集まる「場所」へと赴く必要があった。それは必然的に特定のコミュニティへの参入であった。しかし、このアプリに登録すると、GPSによって、自分と近い距離にいる他の登録者のプロフィールが自動的に表示され、相手と連絡をとることが出来るようになる。例えば、あなたのいる位置から0.5キロのところにAさんが、1.2キロのところにBさんがいる、と表示され、登録された写真や自己紹介を見ることが出来る。アプリによって、コミュニティへの参入抜きで、日常的な対人関係の範囲ではほとんど出会うことのなかったゲイたちの存在が可視化され、ゲイってこんなにたくさんいたんだ、となる。だがそれによって、関係を「切り捨てる」ことも容易になった、と。
これらのことは、『ガッチャマン クラウズ』で、ルイくんがギャラックスというアプリを通じて実践しようとした「マッチングによる革命」と同様のことが、実際に既に起こっていることを示しているだろう。既得権、地縁、業界の慣習、情報の偏り、癒着、先輩後輩、コミュニティ内の人間関係、生活範囲などによって強固に打ち立てられていた壁を、コネと根回しを、インターネットとビッグデータが突き崩し、みもふたもない平等と開かれた関係の多様性、それがもたらすフラットな能力主義が現れる(なめらかな社会?)。勿論、それが「いい事」をもたらすばかりではない。上にリンクした記事には、マイナス面の指摘とその対処法の提案がなされている。
既得権、慣習、癒着、先輩後輩、コネと根回し、これらのことは言い換えれば(行き過ぎれば個への抑圧とシステムの硬直や疲弊をもたらすとはいえ)、人間的であたたかく、血の通ったものだとも言える。これらのことをすべて撤廃してしまえば、合理的で論理的で平等で冷酷である、非人間的世界がひろがるだろう(非情の世界は論理的なので、冷酷ではあっても残酷ではない、残酷とは人間的なものだろう)。テクノロジーの爆発的な発展によって、人間はその両者に引き裂かれるような存在になるのではないか。
個々の存在としての人間は、あくまで前者の人間的世界を(主観的には)生きるのだが、人類(というか、社会)全体としては、テクノロジーの強い力に押し流されて非人間化する、という風に。
(実際問題として、人間による判断が、合理性においてビッグデータ+人工知能による判断に勝ることがあるとは考えにくい。それでもなお、合理性を犠牲にしてでも「人間」に価値を置くことが――人間には――可能なのだろうか。もし、可能でないとするならば、そのような世界は「人間」にとって耐え得るものなのか。耐えられないとすれば、客観的には合理的な非情の世界を、イリュージョンとしては人間的な情の世界を生きる、ということになるのか。)