●昨日の三宅陽一郎さんにつづき国際交流基金京都大学iPS細胞研究所八代嘉美さんの講義。
https://www.jpf.go.jp/j/project/culture/exhibit/exchange/2016/02-01.html
このシリーズは、最初、ぼくが一般的なフィクションの原理のような話をして、次に攻殻リアライズの武藤さんが技術とビジネスとをフィクションを媒介として繋ぐプロジェクトの話をして、昨日の三宅さんがゲーム(フィクション)のなかで機能するAIの話をして、そして八代さんが、iPS細胞にまつわる、技術と倫理とフィクションとの関係の話をした。これらの(技術とフィクションと何々という)話は相互に密接なつながりがあるとともに大きな広がりがあって、面白い(明日は伊藤亜紗さん)。
以下は、講義の正確な要約や再現ではなく、ぼくの主観が多く入った勝手な語り直しです。
●三宅陽一郎さんは英語での講義だったので聞き取るのがきつかった(だから間違っているかも)。昔の(八十年代くらいの)ゲームでは、単一のシステムがゲームのすべてを制御していたが、最近のゲームは違う、と。それぞれ自立した三つのシステムがある。全体を俯瞰的に制御するメタAIがあり、キャラクター(ゲーム内のプレイヤー以外のアクター)が独自に意志決定するための「脳」にあたるキャラクターAIがあり、例えばキャラクターが障害物を最短距離で回避するという時にそれをナビゲートするナビゲートAIがあり、それぞれ自律的に働いている、と。映画で言えば、監督と俳優と大道具に相当する、と。
メタAIは、プレイヤーのコンディション(集中度)や技量に応じて難易度や敵の数を調整したり、ダンジョンのトポロジーを変化させたりする。キャラクターAIは、プレイヤーの戦い方を学習してそれに対応したりする。ナビゲーションAIは、現在地からゴールまでの最短距離での経路を位置を変える度その都度はじき出したりする。だから、同じゲームでもやる度に違っている。あるいは、同じゲームでも、各AIのバージョンがアップするとかなり変わる。
キャラクターとは、そこに知能がある(他者がいる)と感じさせるものである。通常の物語においてキャラクターは作者によって造形される。そこに知能はないが、そう感じさせるように造形し、行動させる。いわばそれは知能(他者)のアイコンでありメタファーであるとも言える。しかしゲーム内のキャラクターでは、実際にそこにAIが作動している。実際の知能(他者)と同様にキャラクターにはある程度の自律性があり、プレイヤーとの間に相互作用が生じる。知能(他者)のアイコン・メタファーであると同時に実際に知能(他者)である。しかしその知能(他者)は、現実空間にではなくフィクションのなかにいる。ゲームのキャラクターの特異性はそこにあるのではないかと、話を聞いていて思った。それはフィクションの中にしかいないが、フィクション内では現実的に自律した知能(他者)である、と。
ゲーム内のAIと、現実上の、たとえばロボットに搭載されるAIとの違いについての質問があった。現実上のロボットは物理法則の働いている空間で運動しなければならないという制約もあるが、それだけでなく、机を見て机と正しく認識し、コップをコップと正しく認識しなければならない。例えば、ベッドを間違えて机と認識してしまうかもしれない。対して、ゲーム内の空間では、机にはあらかじめ「机」というタグが貼られているから、認識を間違うことがない。逆に言えば、IoTが実現して、あらゆるモノにタグが貼り付けられ、ネットワークに接続しているような状態になれば(あらゆるモノが知能化すれば)、現実空間でもロボットAIがかなり自由自在に動けるようになる、と。
これは現実空間がゲームに内包されるということだろう。『電脳コイル』とは違うやり方であるが、結果として『電脳コイル』的世界が想像される。実体のある「サッチー」が街を巡回するとか。現実的には、自動車の自動運転とかが実現しやすくなるとか。
(現実のロボットの研究は、主に物理的制約の克服や世界の的確な認識の方に力を入れているから、いわゆる「知能」という方向については、ゲームAIの方が研究が進んでいる、ということも言われていた。)
●八代さんの講義。ES細胞もiPS細胞も、どちらもあらゆる組織に分化可能な多能性幹細胞である。それは、それ以前にはあり得なかった(常識を覆す)モノをつくり出す技術である。そういうモノが生まれた時にはそれをどう扱うべきかという「倫理」が問われることになる。
ほぼ同様の機能をもつ既にあったES細胞に対する新しく登場したiPS細胞の優位は何か。一つ目。ES細胞胚盤胞からつくられる。それは将来「人間」になり得るものであり、人の起源である可能性をもったものは人と同義とも言える。それを使って例えば移植のための皮膚などをつくることは人を道具のように使うことで、倫理的に問題だとする人もいる。しかし、iPS細胞は、皮膚の一部や血液など、身体のごく一部を使ってつくることができる。それは人体の一部であるから人と同義ではない。二つ目。ES細胞胚盤胞からしか作れない。だからそれを使って培養した組織は基本的に「他人の細胞」による組織であり、臓器移植などと同様に拒絶反応を起こすリスクが高くなる。対して、iPS細胞は自分の身体の細胞からつくられる。よって拒絶反応のリスクがない(しかしガン化のリスクはある)。
「倫理」という問題に関わるのは一つ目だ。iPS細胞は、細胞にたった四つの遺伝子を加えるだけでそれを初期化するというもので、基礎研究としても大変に大きなインパクトをもつが、しかし社会的なインパクトとしては、倫理面をクリアできたので、再生医療について研究者が堂々と研究できるようになり、実用化の道がリアルに見えてきたということが大きい。
ここには、技術の「安全性」とは別の問題、技術についての人々(社会)の納得という側面がある。しかし、納得というのは必ずしも合理性に基づくものではない。
例えばフィクションに出てくる科学者の多くはマッドサイエンティストとして描かれる。科学者は、放っておくととんでもないことをしでかす連中だというイメージが共有されていると言える。だが、たとえば人工知能に関しても、その危険性を指摘し、研究の中止まで含め、様々な対策をいち早く考えているのは、科学者や技術者たちだ。あるいは、研究にはお金がかかり、その予算を得るためには社会的なコンセンサスが必要で、科学者はそうそう簡単に暴走したりできない。とはいえ、科学者たちは何か難しいことを考えていて、人は基本的に、自分が理解できないことを考えている人に恐怖を感じる。あるいは、人は、自分が「自然」「本来」「あるべき姿」と考えているものが、合理的に決定されているわけではないことをなかなか認めない(例えば、「演歌」は西洋的な音楽であり日本の伝統ではないといって歴史を示しても納得しない)。
新しい技術に対して多くの人がもつ、無理解と思い込みを根拠としているとしか言えない「反感」に対して、それをどのように解いてゆくのか。あるいはそれは「解かれるべきではない」のか。ここにフィクションとしての倫理の問題が浮上する。ES細胞よりもiPS細胞の方が「堂々と研究できる」というのは、唯物的な問題ではなくフィクションの問題だ。人は、どのようなフィクションの中で生き、どのようなフィクションを信仰し、どのようなフィクションなら納得するのか。そこに科学技術が関わる場合、それは個人の信念や信仰の問題ではなく、社会としてのコンセンサスとしての「倫理」が問題になる(天才的な科学者だからといって暴走は許されない)。科学技術は、フィクションとしてではなく、「直に」現実それ自体を変えてしまう力をもつから。