2020-07-25

●『アンナチュラル』や『MIU404』にみられる、体制側の巨大な組織のなかで、組織内の大勢に波風を立ててまで新しい部署を作ろうとする志のあるリーダーがいて、その部署に、様々な事情や過去をもったクセのある人物が集まってくるという設定(フィクションの枠組み)は、神山版「攻殻」から来ているのではないかということを昨日の日記で書いた。このようなフィクションの枠組みを「体制内アウトロー」と名付けて、『虚構世界はなぜ必要か?』という本に書いた。この本では、「体制内アウトロー」の代表的な例として押井守による「パトレイバー」シリーズ(特に「パトレイバー2」)を挙げた。しかし、押井版「パトレイバー」では、普段は組織(警察)の周辺的な位置に置かれている部署の、無気力な中間管理職でしかない後藤隊長が、有事の際に力を発揮し、「体制内アウトロー」的な働きをするのであって、神山版「攻殻」のアラマキのように情熱や志をもって組織内に「体制内アウトロー」を作ろうとしているのではない。かつてはカミソリ後藤と言われた切れ者だった人が、今では倦怠と諦観と共にある場末の中間管理職として(いわば、失敗した革命家として)生きているというニヒリズムが根底にあり、九十年代にはそれがかっこよくみえた。

では、神山版「攻殻」ではニヒリズムは克服されているのかと言えばそうではない。アラマキは、自らの理念によって公安九課を設立し、自らの信じる正義を実現しようとする。しかし、彼らのやっていることは基本的に治安維持であり、彼らは、社会の崩壊を防ぐことは出来ても、それを改革することはできない。あからさまな不正を告発し、社会的に大きな悪と闘い、破壊者の行為から社会の崩壊を防ぐことはできるが、それは一面では革命の阻止でもあり、その行き先は現状維持と現状肯定であり、つまり既得権者の固定化(現体制の肯定)につながる。彼らは事件解決の後、自分たちの行動によって一体何が実現されたのかという疑問を持つ。そしてその疑問から、草薙は一時、九課から離れもする。

(体制内アウトローは、本来アウトローであるから、味方より、造反者・革命家である敵の方に資質としては近い。トグサは笑い男に共感するし、草薙はクゼに共感する。)

『アンナチュラル』が神山版「攻殻」と多少でも違っているとすれば、死体の解剖による新たな事実の発覚は、かならずしも現状肯定(現体制の強化)につながるとは限らないということだ。ここでは、科学というもののもつ、権力や人間関係に対する外部性というか、第三者性が効いてくる。石原さとみ松重豊は、科学のもつ第三者性を、政治や人間関係によって埋没させてしまおうとする力と闘っている。科学はそれ自体として体制的でも反体制的でもない(とはいえ、UDOラボを維持するには政治が必要であり、そこ---維持し、中立性を保つこと---に松重豊の闘いがある)。これによって、「体制内アウトロー」が結局は体制側に帰着するしかないという限界からはみ出ることができる余地が生まれる。UDOラボは既にあるものを変える可能性を余地としてもつ。

また、『アンナチュラル』では、科学-解剖によって判明したことを根拠として他者を法と手続きにのっとって説得すること---と、そのための戦略---つまり「裁判」が重要な要素となっているが、神山版「攻殻」には、裁判という過程はほとんど考慮されない。裁判は法という体系のなかで行われるが、それによる正当性の要求もまた、必ずしも現体制(既得権)の強化へつながるとは限らない(たとえば三話において、権威・権力が、「新しい技術」によってひっくり返される)。

『アンナチュラル』で最も大きな物語は連続殺人犯を突き止める過程であるが、それと同時に、この殺人犯を裁判という手続きに従って適切に裁けるのかという点も重要になる。ここで、殺人犯を裁くために、法も科学もどちらも適切に用いられなければならない。殺人犯を適切に裁くために検察から科学的なチートを要求された石原さとみはそれを拒否する。科学の第三者性(いわば真の問題)を、人間的な倫理性(いわば善の問題)によってゆがめることはできない(ここにさらに、当事者である井浦新の感情の問題も絡んでくるのだが)。石原さとみは、科学的な手続きの正当性を維持した探求によって、それが倫理と両立する点を探らなければならない。

では『MIU404』はどうなのか。これは警察内の話であるし、第四機捜は新たにつくられた部署ではあるが、もともとある機動捜査隊に付け加えられただけだとも言える。今後の展開をみたい。