2022/11/23

●劇場版『Gのレコンギスタ I 行け! コア・ファイター』をプライムビデオで。「Gのレコンギスタ」は、テレビ放映時にリアルタイムで途中まで観ていたが、さまざまな要素が入り乱れて、あまりにもガチャガチャしているので(それこそが最大の魅力でもあったのだが)、どんな話なのかぜんぜん掴めず、次の回の放映時には前回のお話がもう思い出せなくなっているという状態になって、途中で離脱した。だが、劇場版としてまとめられたものを観ると、案外シンプルな構図だったなだなと思った。

日本のアニメで、ポリティカルな物語を語り続けている人として、一方に押井守神山健治がいて、もう一方に富野由悠季がいる、ということだろう(トミノにかんしては、ほんの少しの作品しか観ていないのだが)。押井守神山健治が語るのは基本的に「革命」の物語だと言える。「パトレイバー」も「攻殻機動隊」も体制側が主人公なので、「革命を阻止する」側に視点があるのだとしても、そこで語られるのは「革命」のありようだ。一方、富野由悠季が語るのは「戦争」の物語で、戦時下において人はどのように政治的に振る舞うのかが描かれる。それはいわば、複数の「諸革命たち」の抗争と、「革命」の志が必然的に堕落するという事実だ。故に、トミノの方が、より複合的であり、現実的でもある。

攻殻機動隊」では、九課のメンバー(特にクサナギとトグサ)が革命家と共振するが、それでも革命は阻止される(既得体制は維持される)。しかし、最も新しい『攻殻機動隊SAC_2045』では、とうとう「革命」が成功してしまう。だがここで示される「革命」とはまさに「政治(コンフリクト)の消失」のことだ。それは、今、我々が考え得るリアルな革命とは、人が政治をすることをやめるという「革命」だということを示していると思う。

ただ、富野由悠季は、そのことに同意しないのだろう。「諸革命たち」の間の抗争に決着がつくことはなく、そして革命は常に堕落する(あるいは過度に先鋭化する)傾向を持ち、戦争は有名無実化したまま続き、そのなかにある、九割の愚かさ(絶望)と一割の希望が語られ続けるのではないか。そして、自分が生きている間の「現実」は、やはりトミノの方にあるのかなあと思う。