国際交流基金のプロジェクト「科学と文化が消す現実、つくる現実 ―フィクション、制度、技術、身体の21世紀―」で視察があり、見学者として同行させていただいた。「攻殻機動隊 REALIZE PROJECT」をやっている武藤博昭さんという人の話を聞いた。
http://www.realize-project.jp/
科学技術の開発に関して、研究者、投資家、ビジネスマン、行政などを繋ぐための一つの制度として、「攻殻機動隊」という既に社会的に流通しているフィクションを使おうというプロジェクト。「攻殻の世界を実現する」というコンセプトによって、領域横断的に様々な人や地域を結び付けよう、と。
アニメの多くは、「著作者(出版社)」「制作会社」「広告代理店」「放送局」「玩具メーカー」などの共同からなる製作委員会によってつくられる。技術的にも、手描きの絵から3DCGまで、様々な技術の折衷としてつられるし、物語としても、マンガやラノベ、ゲーム、音声ドラマなど他のメディアとの連携があり、発表媒体も、テレビ放送の他、ネット配信やディスクの販売、海外への展開がある。他にも、声優によるライブやイベントとか、グッズや玩具の販売なども関連する。これらの、トランスメディア的な交錯のなかから、例えば「攻殻」なら「攻殻」という一つのフィクションの世界観が成立する。多様なメディアの交錯が、一つのフィクションとしての統合性(多くの人はそれを「世界観」と呼ぶのだろう)を持った時に、そのフィクションは成功したと言える。
(昔の角川映画ば、最初にあくまで原作小説があって、それを売るために多様なメディア展開があったのだが、アニメでは、多様なメディアを交錯させた結果として、その集約点という位置に「フィクション」が生じる、と言える。その時、「フィクション」は、どの特定のメディアにも属さない。例えば、もともとマンガだった「攻殻」の場合、マンガが原作というよりも、マンガに出自をもつ、マンガ出身のフィクションとでもいうべきで、マンガのみに「攻殻」のオリジナリティの根拠を求めることは出来ない。マンガにはマンガとしてのオリジナリティがあり、アニメ押井版には押井版の、アニメ神山版には神山版のオリジナリティがあり、それらが重なるところにフィクションとしての「攻殻」のオリジナリティがある、というべきだろう。)
そのように、様々なメディアの交錯による結節点として成立したフィクションとしての「攻殻」を、こんどは、架空の技術を「現実化する」ためにという名目で、人やお金を結びつけるメディウム≒接着剤として使う、と。ぼくは、ビジネスについて、まったくまったく疎いので、実際のところこれがどの程度上手く機能しそうな感じのものなのか判断は出来ないのだけど、考え方としてはとても面白いと思う。
(だけど、そのように使われることで、フィクションから毒気が抜かれてしまうという危険もあり得るか……)
●そこで聞いたちょっと嫌な話。今度、ハリウッドで「攻殻」の実写版がつくられることが決まった。だがこのハリウッド版の原作はあくまでマンガであるから、(便乗商法を抑制するというタテマエから)契約上、ハリウッド版公開から十か月の間は、アニメ版「攻殻」は、新作をつくったり、派手に宣伝したりすることが禁じられるのだと言う。
でも、さっきも書いたけど「攻殻」というフィクションのオリジナルをマンガだけに限定することはできない。あるいは、「攻殻」のブランド性はマンガだけで成立したわけではない。とはいえ、権利を買う側からすれば、原作者にも権利料を払い、アニメの権利者にも払い…、となるとキリがないので、一番の源流となるものを押さえておくということになるのだろう。それはいいとして、普通に考えれば、アニメ版が便乗した方が、ハリウッド版の宣伝にもなってプラスになると思うのだけど、権利を買ったんだから俺だけのモノ、みたいなのは「攻殻」というフィクションに対する理解、あるいは態度としてどうなのか、と思う。
だがこれはきっと、(製作者とか)誰か個人の「態度」というより、環境というか、場を律している法(必ずしも法律ということではない)の問題なのだろう。「攻殻」が世界的に成功したフィクションであるとしても、そこで動いているお金の大きさと、ハリウッド映画で動いているお金の大きさはきっとケタが全然違うのだろうから、大きいお金が動いている方のビジネス上の慣例が優先的に適応されるということなのだろう。トランスメディア的フィクションと言っても大きなお金には負けてしまう、と。
●お邪魔した会社は溜池山王駅の近くにあり、視察は四時過ぎには終わったので、ステーションギャラリーのモランディにまだ間に合うと思って急いで東京まで行ったが、月曜は休館だ。