押井守の「パトレイバー2」を改めて観直してみた。
一方に、カリスマ的な、孤高のテロリストのリーダーがいて、その策略によって自衛隊と警察とが対立するという危機的な事態が引き起こされ、その状況に対し、自衛隊や警察、そして政府といった正規の組織(その主流にいる権力者やエリートたち)は無能をさらすばかりで何の対策も打てない。そんな時に、警察組織の内部にいながらも、時流から遅れ、主流から外された、(事情があり癖も強い)組織内のはぐれ者というべき人たちによってつくられる独立性の強い(組織というより)自主的協働のネットワークによって事態が打開される。
このような物語のパターンや、機能しない正規な組織(正統なエリート)に対する組織内逸脱者たちのアソシエーションという図式は、この後、神山健治版「攻殻機動隊」の公安九課や、「ナデシコ」の(寄せ集めの)民間軍事組織など、90からゼロ年代のすぐれた作品において反復される(神山版「攻殻」における「体制--逸脱した体制--反体制」という三竦みの図式をみると、同作は、押井版「攻殻」よりも「パト2」から多くを得ているようにもみえる)。特に、神山版「攻殻」では、テロリスト側と体制内アソシエーション側の類似性(対称性、鏡像性)が、高度な情報テクノロジー環境を通じて強調される。
笑い男」では、トグサが次第に犯人と同一化してゆき、最後には草薙が「笑い男」を演じ、公安九課が彼をスカウトするに至る。「個別の11人」では、クゼと草薙は行き別れた兄妹のようであり、運命の恋人のようであり、分身のようですらある。さらに「ソリッド・ステイト…」では、草薙の分離された無意識こそが事件の首謀者であるようだ。
(「パトレイバー2」においては、テロリストがカリスマであるのに対し、独立協働側の面々は独立した存在ではあってもカリスマ性をもたず、あくまでそれぞれの分野の専門家として、専門分野や技術を通して協働するという、職人主義的な「人間味」が強調される。テロリスト=カリスマに対する、個人主義者たちの技術を介した連帯(職人魂)との違いが両者を分ける。神山版「攻殻」においては、両者の構造的な同一性が強調され、彼らの違いは、主に反体制の側にいるのか体制の側にいるのかという、立場の違いとして描かれる。押井守の多くの作品からみられる「職能によるアソシエーション(職人魂)」への愛着と期待、こだわりは、神山版「攻殻」でも「スタンド・アローン・コンプレックス」という形で引き継がれるが、それは「職人魂」というよりもっと機能的なものになっている。)
とはいえ、「攻殻」においては、視点は体制側におかれ、彼らの任務は秩序を守ることであり、いわば革命を阻止することだ。だから、パターンとしては刑事ドラマと一緒で、様々な問題や苦い後味を残しつつも、事件は収束し、(無能な権力者たちの支配する)秩序は回復される。それが、これらの物語を「大人っぽい」ものにしている。そこに社会性の刻印がある。主人公たちは、無能な権力者たちよりもずっとテロリストに強く共感しているし、尊敬もしている。しかしそれでも、愚かな権力者たちの秩序は守られなければならない。社会の秩序そのものが崩壊するよりはずっとマシだから。「わたし」の問題と「社会」の問題は一応分けて考えられている。
そこに、いわば生々しい「幼稚さ」を(ものすごいテンションで)対置したのが「エヴァ」と言える。そこでは「わたし」の問題と「世界」の問題が混同、直結され、主人公は「世界の敵」と直接戦っていて、「わたし」の救済こそが「世界」の救済であり、「わたし」の破綻こそが「世界」の破綻であるかのように、ほぼぴったり重ね合わされている。ゲンドウは、ただユイに再び会いたいという理由だけによって、地球を破壊してしまうことも厭わない(さらに、物語の根拠は「超古代文明」という、世界の外に預けられている)。そしてそれは確実に、フィクションだけに許されるある真実を示している。それは、大人が往来でいきなり座り込み、子供のように大声をあげ、からだ全体を使って泣き出してしまう光景のように「強い」。
ここで「ウテナ」のことを考えると、「攻殻」よりも「エヴァ」に近いように見える。「世界の果て」や「世界を革命する力」などという生硬な言葉がそのまま使用され、登場人物たちは、それぞれの個人的な事情を解決するために「世界を革命する力」を得ようとしている(世界=わたし、であるようにみえる)。物語の舞台としても、ほぼ、学園=世界であり、リアルな社会情勢などは入り込む余地がないかのようだ。物語の根拠も、「世界の果て」というわけのわからない抽象的概念に支えられている。
だが、「エヴァ」の物語が「わたしの救済」であるのに対し、「ウテナ」の物語は「他人の説得」であるという点が大きく違っている。ウテナは、ほぼ理解不能で共感不能なアンシーと友達になりたいと願い、全36話をかけてアンシーを説得する、と要約してもいいような話になっている。だからここで「革命」とは、ほぼ理解不能で共感不能な相手の説得に成功すること、だと言える(この説得は、「わたし」と「あなた」の間に起こる予期せぬ相互変化によってしか実現しないだろう)。これはいわば、「大人」である「パト2」「攻殻」の職能協働集団の面々がはじめから諦めていることだ。彼らの個は「スタンド・アローン」であり完成されていて、説得するのではなく交渉し、政治をする。彼らは混乱による最悪の世界の到来を避け、より少なく悪い世界へ着地するために行動する。
だから「ウテナ」は、「社会の話」でも「わたしの話」でもなく、「わたしとあなたの話」だと言える。
(幾原邦彦の作品は、「ピングドラム」も「ユリ熊嵐」も、一貫して「わたしとあなたの話」だと言えるのではないか。ここでおもしろいのが、幾原作品は、設定の上では社会性など入り込む余地のないような、典型的にセカイ系的で人工的に閉じた世界であるにもかかわらず、「ウテナ」はフェミニズム的な文脈でも読まれ得る作品であり、「ピングドラム」は地下鉄サリン事件という現実の大事件を重要なレファランスとしてもち、「ユリ熊嵐」では「透明な嵐」という、現代の日本社会の「空気」を強く反映した細部をもっているという風に、セカイ系的世界のなかに社会的要素が深く織り込まれているという不思議なつくりになっているところだろう。)
●90年代のアニメのすごさは、このように、「社会の話(「パト2」)」「わたしの話(「エヴァ」)」「わたしとあなたの話(「ウテナ」)」という、まったく異なる方向性で、それぞれとても優れた作品があらわれたというところにもでているのだなあ、と思うのだった(神山版「攻殻」は90年代ではないけど)。
(あと、「ナデシコ」という超重要な作品もあるけど、この話の文脈のなかには収まらない。)