●「攻殻」の笑い男は、天才的なハッカーであるがゆえに、いくらでも書き換え可能な電子的な情報に価値を見出せずに紙メディアにこだわっていて、最後は巨大な図書館のようなところの管理をしているみたいな感じになるのだけど、今ではもう、ブロックチェーンという技術が出てきたので、「電子的情報はいくらでも書き換え可能」という物語は使えなくなってしまったんだな、と思った。
●「個別の11人」も観た。これって意外に今の日本というか、今の世界に近い感じ。個別の11人というのは、まあネトウヨだし、悪意あるデマゴーグによって排外的な雰囲気が蔓延していく。ポストトゥルースというのも、今にはじまったことではない。現実にもおそらくゴーダは存在し(というか、たくさんいる)、クゼは存在しない。いや、既にクゼもたくさんいるのかもしれない。
神山版「攻殻」は、悪い奴がいかに悪いかということを執拗に描いている。世界を変えようとする者の意思や行為は、悪い奴らによって取り込まれ、利用される。悪い奴らはシステムをがっしりと掌握している。おそらくこれと逆なのが「ガンダムUC」で、ここには悪い奴はほとんど出てこない。すべての登場人物が、少しでも世界をよくするために尽力する。しかし、それでも状況は容易には変わらないし、争いもなくならない。誰もシステムを掌握していないからこそ、システムを変えられない。
悪い奴らがシステムを掌握しているからこそ、体制内アウトローが正義であり得る。体制内アウトローは、世界を変えないが、体制内にある悪を感知し、それを抑制、あるいは排除する。「個別の11人」で面白いのは、首相が体制内アウトローとして振る舞うところだ。連合政権の「お飾り」であると見なされる女性首相の茅葺は、政権の中枢にいながらはしごを外される。しかし、だからこそ独自の判断で九課と連携することができる。
体制内アウトローは、官僚的組織に属しながら、官僚的な階層性や縦割り性を無視して個々の独自判断で動く。ゴーストはスタンドアローンであり、独自判断とは組織の命令系統ではなく自らの「ゴーストの囁きを聴く」ことだ。独自判断の根拠はゴーストだ、ということになる。「個別の11人」で最も際立った独自判断(スタンドプレー)を行うのはタチコマだ。タチコマがクサナギの命令を無視して独自判断で行動する。AIが人間の命令を無視して行った行為が皆を救う。つまり、ここではAIこそが最もすぐれたゴーストをもつ(スタンドプレーを行う)ということになる。
(しかしタチコマのゴーストはスタンドアローンとは言えないかもしれない。タチコマは、常に情報を並列化しているにもかかわらず個性が生じた。今回も、命令違反を最初に提案した---思いついた---のは特定の個体だ。しかし、タチコマたちの間ではただちに情報が共有されるから、タチコマ全体の行動は合議制で決定されていると言える。つまり、ここでの命令違反という独自判断はタチコマたちの集合知による。タチコマのおもしろさの一つに、タチコマ全体で一つのゴーストとも言えるし、それぞれが固有のゴーストをもつとも言えるという二重性にある。タチコマたちには、個性はあっても、意見の食い違いは生じない。)
体制内アウトローの独自判断が力をもつのは、それが体制内にいることによる権限や資金力をもつと同時に、アウトローであることの自由度をもつからだ。彼らは官僚的組織の特区であろう。体制内にいることは彼らにとって力の源泉であると同時に枷であり、だから彼らは秩序を守る(悪を摘出する)ことはできても、世界(体制)を変えることはできない。
世界を変えようとするのは、笑い男やクゼといった在野の存在だ。笑い男は、青臭い正義感によって、クゼは、大きすぎる妄想(クサナギは、クゼの脳内のアドレナリンは致死量を超えている、と言う)によって、それを成そうとする。神山版「攻殻」では、悪は潰えるが、同時に革命も失敗する。笑い男は図書館のなかにひきこもり、クゼは殺される。