●ひさびさに「攻殻機動隊 S A C」の「笑い男」事件の編集版(200分、は間違いで160分)を観る。そして数日前に新しいシリーズ(「ARISE」「PYROPHORIC CULT」「新劇場版」)を通して観た。改めて、「笑い男」すごく良く出来てるなあ、と思った。「ARISE」も「新劇場版」はけっこうがんばっていると思ったけど、やはり違うな、と。
神山版「攻殻」と「ARISE」の大きな違いは、正義というものの有無にあると言える。神山版「攻殻」にはいつも、世界を変えようとしている人物がいる。彼は、現状を変えようとしているのだから現体制からみれば犯罪者だったりする。だから、国家の側に居る公安九課からするととりあえずは敵になる。しかし、実際には九課と笑い男の敵は共通している。それは体制の内部にある悪であり、九課は内部から、笑い男は外部からそれと闘うことになる。
そして、その勝利は苦いものとなる。笑い男や九課があれだけ努力をし、そして多大な犠牲を出して得た勝利とは、一人の大物政治家の失脚だ。もちろんそれは重要だし大きなことだが、それで一体何が変わったというのか。この苦さもまた神山版の特徴だろう。
しかし「ARISE」には正義がない。あるのは、一つは兵器の開発を主に国内で行うか、国外に委託するかという軍部内勢力の対立で、もう一つは、義体ビジネスにまつわる政治家、官僚、企業を巻き込んだ、技術革新優先派と既得権優先派の対立である。どちらも巨大な利権が絡んでいて、争いに負ければ命も危ない(というか、首相さえ暗殺される)。生き残りをかけた切実な争いだが、これはどちらも、現体制内での、利己的な覇権争いにすぎない。そして、その争いでどちらの陣営が勝っても自分が生き残ることが出来るようにと、複数の陣営に自分のアバタ―(リモートコントロール義体)を送り込み、その複数の人格を同時に操っている謎の存在(ファイアスターター)がいて、これが草薙たちの敵となる。
正義のないところで草薙はなぜ、何において闘っているのか。それは、軍に嫌気がさして飛びだした草薙にとって、自分が自分として自律的に存在できる居場所が必要で、それを得るために闘っていると言える。つまり「ARISE」では、あらゆる人たちが「自分の生き残り」のために、自分が「生きる」ために闘っている。「ARISE」には、笑い男やクゼのように、世界を変えたいと望む人物が出てこない。
(作品の主題的には、複数の陣営、複数の立場にある複数の人格を操り、その誰が生き残っても、複数の自分のうちのどれかは生き残ると考える、分散型ゴーストをもつファイアスターターと、ゴーストの唯一性、自律性を信じ、自律的な生のために闘う草薙素子との対立が主な対立と言える。)
兵器開発国内派(クルツ)と国外派(ホズミ)の闘いでは国内派が勝ってホズミは殺され、技術開発推進派(ロバート東亜連合代表)と既得権派(クルツ・首相)の闘いでは推進派が勝ってクルツと首相は殺され、そして悪の限りを尽くして勝利したロバート東亜連合代表は草薙によって殺される。さらに、裏で暗躍したフィイアスターターは草薙に正体を知られて自ら命を絶つ(ネットの世界に旅立つ)。最終的に勝利した草薙は、自律的な自分の部隊と立場を手に入れる。ただ、これでは草薙が勝利して望みのものを手に入れたというだけで、それ以外の問題は一切解決していないことになる。戦後、国から見捨てられた元兵士たちはどうなるのか、デッドエンドはどう解決されるのかなど、まったく分からないまま終わる。
一方で「ARISE」を、正義の入り込む余地のない世界での、草薙の自己実現の物語とみることができる。しかしそれだけではない。
この物語でファイアスターターとは、謎の敵を名指す語であると同時に、彼女が操る電脳ウイルスを指す語でもある。ウイルスであるファイアスターターは、人の記憶や信念や行動まで自由に書き換えられるもので、本人にそう自覚させることなく、痕跡を残すこともなく(発症後に自己消滅する)、他人を自由に操れてしまう。こんなウイルスが存在し、しかも広く使われているのだから、どんな人も既に責任の主体であることなどできなくなっていると言える。しかも、全身義体の人物であれば、どんな姿になることもできる。つまり、外見も中味も、誰が誰だか分からなくなる。ゴーストというものが、その人の存在や行動の責任と固有性を引き受ける何かなのだとすると、ゴーストなんて本当にあるのか分からない状態に、この物語は本当はなっている。
(ファイアスターターは、警官に市民を殺させ、同士討ちをさせ、ある人物に思想信条とは逆の行為をさせ、首相の息子に父を殺す手伝いをさ、しかもそれらの行為を自発的にさせる。)
そもそも、ファイアスターターを使っている人が、別の人からファイアスターターで操られているかもしれない。目の前にいる人物の「中の人」が一体誰なのか、というか「わたし」の中の人が誰かすら、さっぱり分からなくなる。なにしろ、草薙自身も偽の記憶をかまされるし、草薙と深い繋がりのある戦友であったはずのクルツが、実際には存在せず、はじめからファイアスターターの操る人形だったというのだから、もう何も信じられない。
(草薙は戦争中にクルツと組んで、カルディス人の独立運動に介入するためにスクラサスという架空の革命家をでっち上げ、あかたも実在するかのように義体を操作していたわけだけど、その片割れであるクルツもまた操作された人形であったことになる。)
(ファイアスターターは草薙とまったく同型の義体で行動し、草薙を殺して、草薙素子の「名」を奪おうとしていた。中味も外見も交換可能である世界で、ただ名前---社会的な関係性のなかでの位置---だけが何かを確定する。)
つまり、この物語では、ゴーストがスタンドアローンであるとはとても言えない状態がつくり出されている。物語的には草薙が勝つが、実質的(状況)にはファイアスターターが勝っている。だからこの物語は、自律したゴーストをもつ草薙の自己実現の物語と、自律したゴーストという考えがそもそも成立できない世界が二重描きされていると言うことができる。その意味では神山版からの飛躍はあると言える。
ただ、これだけ社会的なネタをたくさん投入して、資本主義批判みたいなこともしているのに、草薙の自己実現が成立したら、他の問題は置いておいて「はい終わり」というところが、どうしても弱いように思われる。