2024-10-26

⚫︎『羊をめぐる冒険』(1982年)を半分くらい(上下二冊に分かれている講談社文庫の上巻を)読んだ。

VECTIONのきくやさんがウズベキスタンに旅行に行ってきて、会議で、その旅行について、ウズベキスタンの歴史について、羊と山羊の違いについて、遊牧や戦争機械について話して、その時になんとなくこの小説が頭に浮かんだから読んでみた。前段階として、『マス・イメージ論』をまた読み返していて、そこにこの小説のかなり詳細なあらすじが書かれていて、ほとんど忘れちゃっているけど、そういえばこんな話だったなあと思った、ということもある。

何度も書いているが、ぼくが現代小説に興味のを持ったのは82年から83年くらいに『「雨の木(レインツリー)」を聴く女たち』『千年の愉楽』『羊をめぐる冒険』の三冊を読んだことがきっかけなのだが、その後も、前の二冊は何度も読み返しているが、『羊をめぐる冒険』だけは、高校生の時に何度か、90年代初頭に一度くらい読み返したと思うが、それ以降は30年以上読んでいない。それは、村上春樹を読むことがなくなってしまったから、というのが大きい。

羊をめぐる冒険』を読んでから、遡行して『風の歌を聴け』と『1973年のピンボール』と『中国行きのスロウ・ボート』を読んで、発売時にリアルタイムで『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』『蛍・納屋を焼く・その他の短編』『ノルウェイの森』を読んで、ここまでは熱心な読者で、ファンだったと言ってもいいと思う。しかし次の『ダンス・ダンス・ダンス』(1988年)がぼくにはさっぱり面白いと思えなくて、「なんか自己模倣じゃん」と感じて冷めてしまって、それ以降、村上春樹を読まなくなった。

それでも、『ねじまき鳥クロニクル』と『神の子どもたちはみな踊る』は読んでいるが、この辺は押さえとかなきゃ、みたいな感じでもはや熱心な読者として読んではいない。

(『神の子どもたちはみな踊る』はとても完成度の高い短編集で、だからこそ「文学の否定的側面(「文学」のよくないところ)」だとぼくが考えているものが見本市のようにびっしり詰まっていて、なんというかほくにとっての「理想的な仮想敵」みたいな感じがある。)

村上春樹は、その影響力があまりに大きかったが故に、(質の低い模倣も含めて)あの「文体」が一般化しすぎて、そこから翻って「本家」もまた陳腐に感じられるようになってしまったというところがあるように思う(たとえばラノベの文体の八割は村上春樹成分でできていると思う)。もちろん、散々言われているようなツッコミどころはあるとしても、少なくとも初期の文章は引き締まっていて新鮮だし、70年代終わりから80年代初頭の時期に、日本語でこういう風に書く人はいなくて、決定的に新しかった。ただ、影響が大きく広がったが故に、その「新しさ」が今では感じられなくなってしまっているということだろう。

たとえば、以下の会話。

《「いつも嫌な夢を見るの ?」

「よく嫌な夢を見るよ。大抵は自動販売機の釣り銭が出てこない夢だけどね」

彼女は笑って僕の膝に手のひらを置き、それから引っ込めた。

「きっとあまりしゃべりたくないのね ? 」

「きっとうまくしゃべれないことなんだ」

彼女は半分吸った煙草を地面に捨てて、運動靴で丁寧に踏み消した。「本当にしゃべりたいことは、うまくしゃべれないものなのね。そう思わない ? 」

「わからないな」と僕は言った。》

この会話を、今読んで、気が利いていると感じる人は少ないかもしれないが、80年代初頭の時期に、こんなふうに書く(書ける)人は他にはいなかった。今の若い作家がこんな風に書いたらゲーッとなるとしても。

(まったく面白くなくてどう反応したらよいかわからないようなジョークをあえて挟んで微妙な空気を作ったり、会話の最後を肯定でも否定でもなく「わからないな」で締めて宙吊りにしたりするところなど、この独自な村上春樹っぽさは新鮮だった。)

あるいは、次のような比喩。比喩であることそのものを宙吊りにするような比喩、というのか。

《空中に浮かんだ目に見えぬ壁にふと手を触れてしまったような悲しい気持ちになる。》

《実に美しくはあるが、どことなく奇妙な手だった。その手は極めて限定された分野における高度な専門性を感じさせたが、それがどのような分野であるかは誰にもわからなかった。》

さらには次のような独白。言葉が言葉として、具体性を持たないまま、空転的に展開していくさま。ここから西尾維新まではあと半歩、という感じだと思う。

《「僕は迷惑に関してはちょっとした権威なんです。他人に迷惑をかける方法なら誰にも負けないくらい知っている。だからなるべくそういったものを避けて暮らしてるんです。でも結局はそうすることで他人にもっと迷惑をかけてしまうことになる。どう転んでも同じなんですよ。しかし同じだとわかっていても、最初からそんな風にはできない。これはたてまえの問題です」》

⚫︎『羊をめぐる冒険』は、それ以前の作品とは明らかに違うことをやろうとしている。冒頭近くから三島由紀夫の事件を想起させる細部があったり、「右翼の大物」が出てきたりして、日本の近代史に切り込もうとしている。ただし、物語が動き出しそうな気配ばかりが延々と積み重ねられ、いつまで経っても物語が立ち上がってこない。学生時代に知り合いだった女性の死、妻との離婚、特異な耳を持った女性との出会い、かつての友人(鼠)からの手紙、ずっと一緒にやってきた共同経営者との別れなど、背景に「時代」を強く感じさせながらだとはいえ、《僕》の事情ばかりが積み重ねられて、上巻の終わりになってようやく《羊》を探しに北海道へ発つことになる。