2023/03/15

●個人的なことを言えば、最初の「現代小説」との出会い(洗礼)は1982年に出版された三冊の小説で、『「雨の木」を聴く女たち』(大江健三郎)と『羊をめぐる冒険』(村上春樹)と千年の愉楽』(中上健次)だった。読んだのはたぶん出版の翌年、高校一年の時だと思う。当時は、村上春樹でさえ、ぼくの周りでは読んでいる人―-その名を知っている人さえ-―一人もいなかったのだが、「この世界」にはこんなものが存在するのか !、という強い(そして孤独で密かな)興奮があった。

(さすがに大江健三郎にかんしては、現代国語の副教材の年表に名前があったと思うし、新潮文庫の『死者の奢り・飼育』を読んでいる人は稀にいたが、リアルタイム大江を読んでいる人はいなかった。)

(『「雨の木」を聴く女たち』を本屋で手に取った時点で『死者の奢り・飼育』を読んでいたかどうかは憶えていない。ただおそらく、大江健三郎という著者に対する予備知識や事前イメージは、著名な作家だという以上はほぼなくて、表紙というか、装丁の美しさに惹かれて買ったのだったと思う。『死者の奢り・飼育』を読んでいたらこの本は手に取らなかった気もする。)

(では、村上春樹中上健次にかんしては、どの程度の事前知識があったのだろうか。名前をまったく知らなくて、これらの本を装丁だけ見ていきなり手に取ることはないと思うが、その知識はどこで得ていたのだろうか。文芸誌などをチェックするようになるのはこの三冊を読んで以降だと思う。おそらく、当時多くあったカルチャー系の雑誌か、文化的ヒーローのインタビュー記事などで目にしたのだろうと思われる。)

(いや、当時からけっこう、何の予備知識もないまま、本屋さんで本を手に取って、パラパラ見たりして、その直感で本を買うということは普通にしていたはずだ。『構造と力』も、何の予備知識もなく、本屋で見て気になって買ったのだった。)

大江健三郎は、二十歳そこそこでデビューして、八十歳近くまではずっと第一線で書き続けていたので、作品数が多く、様々な傾向の作品を書いてもいるので、どこから入ったらいいかよく分からない感じもあると思うけど、現代作家は基本的には、同時代のもの、つまりその時点での最新作に近いものから入るのがいいのではないかと、ぼくは思っている。つまり『晩年様式集(イン・レイト・スタイル)』か『水死』か。

大江健三郎で一番すごいのは『水死』だと思っていて、一番最初に、一番すごいところから入るのが、結局は一番わかりやすいのではないかとも思う。これは、「歯応えのある」小説も読める人には、ということになるが。

(自薦短編集が岩波から出ているからそこから入るという手もあるが、きっと、若い頃の小説にも手を入れちゃっているのだろうなあと思う。二十歳そこそこの学生の書いた小説に、ノーベル賞も受賞した八十歳のベテラン小説家が手を入れるなどということが、たとえそれが「自分が書いたもの」であったとしても倫理的に許されることなのだろうかとも思うが、でも、それをするのが大江健三郎で、大江健三郎の小説とはそういう風にして書かれる小説なのだ。)

(また別の話だが、村上春樹の『中国行きのスロウボート』という短編集を、それが出た当時好きで、久々に読み直してみようと思い、図書館から『村上春樹全作品 1979-1989』を借りてきたのだが、村上春樹が解説で「昔の自分はそれなりに頑張ったけどまだ至らないところがあったのでその部分を書き直した」みたいなことを書いていて、なんで書き直しちゃうのか、あのときの状態のが読みたかったのに、と、すっかり読む気が失せてしまった。必ずしも「今の自分」が「昔の自分」より優位にあるわけではないはず。)

(確か高校三年の時、大学を出たての若い英語教師が授業中にいきなり「異様な小説を読んだ」と言って『新しい人よ眼ざめよ』の話をしだしたことがあって―-面白い小説を読んだというよりたんに「変なもの見た」というニュアンスだった-―おお、リアルタイム大江を読んでいる人を初めて見た、と思い、自分もそれを読んだと言ったら「高校生が読むような小説じゃない」と言われた。そういう、知的、文化的に貧しい環境で育ったのだったという思い出。)

●偽日記では、大江健三郎についてはそんなに書いてない。

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●シンポジウム日中韓 大江小説読み比べ」に出た日の日記。

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